しょうの雑記ブログ

ファッション、音楽、物事の考え方、おすすめの商品、食べ物、プロ野球などについて書いたブログです。

嫌いな人とは、なるべく会わないように心がける

 ほとんどの人は、日々生きる中で、「嫌いな人」がいると思います。

 

 「嫌いな人」とどう付き合っていくかは、人生の大きな問題だったりします。

 

 世の中には、「嫌いな人を避けるな」とアドバイスする人もいます。

 

 そういう人は、「嫌いな人を避けているから、余計に嫌いになるのだ」とか「嫌いな人でも、しっかりと向き合ってみたら、良い面が見えてきたりする」と言ったりもします。

 

 これは、確かに、そういった側面もあると思います。

 

 自分も過去に、嫌いな人を克服するため、そういった方法を試してみたこともあります。

 

 しかし、自分の場合、そういった対処法は、うまくいきませんでした。

 

 確かに、嫌いな人としっかり向き合ってみると、「こういう良い面もあるんだな」と気付くことはあります。

 

 ただ、それにより、「相手を好きになったことがあるか」と聞かれたら、それははっきり「NO」です。

 

 嫌いな人としっかり向き合ったところで、「大嫌い」が「嫌い」に変わる程度でした。

 

 または、「嫌い」が「少し嫌い」に変わる程度です。

 

 自分の場合、嫌いな人としっかり向き合ったところで、その人を「好き」になった経験は一度もありませんでした。

 

 そして、嫌いな人としっかり向き合うことで良い面を見つけられることもありましたが、それ以上に「嫌いな人としっかり向き合うストレス」が大きいと感じました。

 

 わざわざ「嫌いな人の良い面」を見つけるために、「嫌いな人としっかり付き合うストレス」を抱えるのは、割に合わないなと思いました。

 

 それに、「嫌いな人の良い面」というのは、「相手としっかり向き合わなければ気づけない」というものでもありません。

 

 しっかり向き合わなくても、はたから観察しているだけでも、「嫌いな人の良い面」を発見することは可能です。

 

 それを考えると、自分としては、「わざわざ、嫌いな人としっかり向き合う必要はないのでは?」と思ってしまいます。

 

 むしろ、「嫌いな人となるべく会わないようにする」方が、嫌いな人に対する対処法としては良いのではないかと思います。

 

 それに、「相手としっかり向き合う」と、良い面も見えてきますが、それと同時に「悪い面」も見えてきたりします。

 

 「相手としっかり向き合う」ことで、余計に相手の悪い面が見えてきて、余計に嫌いになることがあります。

 

 そうなってしまうと、「嫌いな相手と向き合うストレス」に加えて、「相手をさらに嫌いになってしまう」ことになるので、非常にデメリットが多いと感じます。

 

 人間、どうしても、「本質的に合わないな」と思ってしまう人はいます。

 

 自分が「嫌い」と思う人がいたら、その人は、「自分と本質的に合わない」可能性が高いということです。

 

 それならば、わざわざその人としっかり向き合う必要はあるのでしょうか?

 

 そんな時間があるならば、「本質的に合いそうな人」と向き合うようにした方が、有意義なのではないでしょうか。

 

 自分が「好き」と感じる人というのは、「自分と本質的に合う」可能性が高い人です。

 

 それならば、「嫌い」と思う人にはなるべく会わないようにして、「好き」と思う人と沢山会うようにした方が、人生が豊かになるのではないでしょうか。

 

 一般的に、「好きな人に沢山会う」と、幸福度が上がると言われています。

 

 これはまさに、その通りだと思います。

 

 しかし、それと同じくらい、幸福度を上げるためには、「嫌いな人になるべく会わないこと」も重要な気がしいます。

 

 嫌いな人と会うと、当然、幸福度は下がります。

 

 そのため、好きな人に沢山会っていたとしても、嫌いな人にも沢山会っていたら、幸福度は相殺されて、あまり上がりません。

 

 「好きな人に沢山会っているのに、なぜか幸福度が上がらない」と感じている人は、「嫌いな人にどれくらい会っているか」もチェックしたほうがいいと思います。

 

 そうすると、「結構沢山、嫌いな人に会っていた」ということがわかり、「幸福度が上がらない原因はこれか」と気付いたりします。

 

 人生の幸福度を上げたいのであれば、「嫌いな人にはなるべく会わない」ことをおすすめします。

 

 ただ、「嫌いな人にはなるべく会わない」と心がけても、「嫌いな人と会わざるをえない」場合もあると思います。

 

 一緒に住んでいる家族に嫌いな人がいる場合は、完全に会わないようにするのは難しいでしょう。

 

 また、会社員の場合も、会社の上司や同僚に嫌いな人がいた場合、完全に会わないようにするのは無理です。

 

 こういった場合、どうしても「嫌いな人と会わざるをえない場面」が出てきます。

 

 しかし、そんな時でも、「嫌いな人との接触を最小限にする」ことはできます。

 

 それは、「嫌いな人には、要件のみ伝えるようにして、余計な話はしない」という方法です。

 

 家族に嫌いな人がいる場合は、どうしても必要な要件がある時だけ話すようにします。

 

 会社に嫌いな人がいる場合は、仕事の用件だけ伝えるようにして、プライベートの話などはなるべくしないようにします。

 

 相手からプライベートのことを聞かれても、適当に受け流すようにします。

 

 そういったことを常に心がけて嫌いな人と接していると、「嫌いな人と接している時間」は、かなり削ることができます。

 

 嫌いな人と接する時間を完全になくすことができなくても、その人と接している時間を削ることができるだけで、だいぶ幸福度に違いが出ると思います。

 

 嫌いな人と会わざるをえない場合は、「いかにその人と一緒にいる時間を削ることができるか」を考えるようにしましょう。

 

 その時間をなるべく削ることができれば、幸福度も下がりにくくなります。

 

 当たり前ですが、人生の時間は有限です。

 

 その限られた時間で、わざわざ好き好んで、「嫌いな人と接する時間」を増やす必要はありません。

 

 嫌いな人と会う時間はなるべく減らして、好きな人と会う時間を増やしましょう。

 

 そう心がけた方が、幸福な人生を送れる確率は上がると思います。

 

 

 

適当な対応をする人がいたら、自分も適当な対応をする

 日々、生活をしていると、「適当な対応をする人」に出くわすことがあります。

 

 こちらが、「きちんとした対応をしよう」と思って接しているのに、それに対して適当な対応をする人は、結構います。

 

 そういう人に出くわすと、「こちらがきちんと対応しているのに、なんだその適当な対応は」とイライラしたりします。

 

 そして、そういった人の多くは「人に対して適当な対応をすること」が完全に身に付いてしまっていたりします。

 

 こちらがさらに丁寧な対応をしたとしても、適当な対応しか返ってこなかったりします。

 

 そうなると、余計にイライラしてしまいます。

 

 そういう人に対する一番良い対処法は、「こちらも、なるべく適当な対応をすること」です。

 

 適当な対応をしておけば、適当な対応が返ってきたとしても、「こっちも適当な対応だったから、まあいいか」となり、あまりイライラしません。

 

 ただ、問題なのは、そういう相手に対して、「きちんとした対応をせざるを得ない場合」です。

 

 その相手が、ただの知り合いなら、適当な対応をしても、それほど問題ないでしょう。

 

 相手と少し距離ができる程度で済みます。

 

 これが、会社の上司だったりすると、かなり厄介です。

 

 あまり適当な対応をする訳にもいかず、ある程度、丁寧な対応が求められます。

 

 しかし、せっかくこちらが丁寧な対応をしても、適当に返されたりすると、「自分は、何のために丁寧な対応をしたのだろう」とがっかりしてしまいます。

 

 そして、そういう人に限って、自分のことは棚に上げて、「社会人ならば、丁寧な対応をしろ」と説教してきたりします。

 

 まさに「嫌われる上司」の典型ですが、社会にこういう人は結構います。

 

 こういうであっても、会社の上司であるならば、「ある程度丁寧な対応」はする必要はあります。

 

 ただ、「完全に丁寧な対応」をするのはやめましょう。

 

 それを続けていると、心が折れて、うつ病になってしまうリスクもあります。

 

 ある程度丁寧な対応をしたとしても、所々、「適当な対応」を混ぜるようにしましょう。

 

 そういった「ガス抜き」は必要です。

 

 そして、適当な対応について怒られた時は、その場では表面的に「すいません」と謝っておきましょう。

 

 ただ、謝ったとしても、その後も、時々、適当な対応を混ぜておきましょう。

 

 上司であっても、そんな人に「完全に丁寧な対応」をする必要はありません。

 

 適当な対応をした時に、今後も怒られるかもしれませんが、そんな時も、表面的に謝っておけばOKです。

 

 正社員であれば、ちょっと適当な対応をしたくらいでは、会社はあなたをクビにはできません。

 

 それならば、所々、適当な対応を混ぜていきましょう。

 

 時々、適当な対応を混ぜていくと、上司も、「こいつは、少し適当なところがあるやつだ」と思うようになります。

 

 そうなると、今後、適当な対応をした時でも、「こいつはちょっと適当なところがある奴だから、仕方ないな」と思うようになるかもしれません。

 

 そう思ってくれた方が、こちらとしては好都合です。

 

 適当な対応をしても、ある程度は許されたりする訳ですから。

 

 「適当な対応をしてくる相手に、完全に丁寧な対応をする」ことは、日々を生きる中で、非常に大きなストレスになります。

 

 日常的にこういうことばかりしていると、心は次第に荒んでいきます。

 

 自分の心を守るためには、「適当な対応をしてくる相手には、適当な対応で返す」ことが必要です。

 

 相手によっては、「完全に適当な対応」をすることは難しいかもしれませんが、そんな時でも、「部分的に適当な対応」をするように心がけましょう。

 

 

 

「小さな失敗」を面白がるようにする

 日々生活をしていると、「失敗すること」は沢山あります。

 

 「全く失敗をしたことがない人」というのは、この世にいないでしょう。

 

 生活の中で、大きな失敗をすることもあれば、小さな失敗をすることもあります。

 

 「大きな失敗」をすると、大抵の人は、酷く落ち込みます。

 

 そして、気分の落ち込みから回復するのに、多くの時間を要したりします。

 

 また、人によっては、「小さな失敗」をしてしまった時でも、酷く落ち込んでしまったりします。

 

 例えば、「パッケージを間違えて、買おうとしていたものではないお菓子を買ってしまった」ということがあったとします。

 

 これは明らかに、「小さな失敗」でしょう。

 

 はたから見ると、「そんなたいした金額ではないのだから、買い直せばいいじゃん」と思ったりします。

 

 しかし、そういう経験をした時、「お金を無駄にしてしまった」「なんで間違えたんだ」と、酷く落ち込んでしまう人もいます。

 

 「大きな失敗」ならば、気分が大きく落ち込んでしまうのも仕方ありません。

 

 しかし、「小さな失敗」でも大きく落ち込んでいる人を見たりすると、「なんだかもったいないな」と思ったりします。

 

 それに、「失敗」というのは、冷静に分析してみると、なかなか面白い部分が多かったりするものです。

 

 「お菓子を間違えて買った」場合の失敗した原因を分析すると、「パッケージが似ていた」「買いたいお菓子の隣の棚に置いてあった」、「買う時に急いでいた」など、いくつかの原因が思いつくでしょう。

 

 そして、失敗した原因を細かく見ていくと、「意外と面白いな」と思うことも多いです。

 

 例えば、「パッケージが似ていた」ということを分析すると、「最近は、こういうパッケージの雰囲気が流行りなのか」と、新たな気づきを得られたりします。

 

 また、「隣の棚に置いてあった」ということがわかれば、「次に買う時は、棚の位置を確認しよう」と心がけるようになります。

 

 そして、「急いで買うと間違えやすい」ということがわかれば、「急いでいても、商品名だけは確認しよう」と意識するようになります。

 

 また、間違って買ったお菓子を食べてみたら、「あれ、このお菓子の味も、悪くないな」と思ったりもするかもしれません。

 

 このように、「小さな失敗」を細かく分析してみたり、失敗から得られた経験をじっくり味わってみると、様々な「気づき」があります。

 

 そういった「新たな気づき」を発見することは、なかなか面白い事でもあります。

 

 世の中には、「失敗したからこそ気づけたこと」というのも、沢山あります。

 

 そういったことは、成功していたら、なかなか気づけないものです。

 

 「小さな失敗」をしてしまったのであれば、せっかくなら、それをうまく利用して、様々な「気づき」を得るようにしましょう。

 

 そうすれば、「失敗した心理的ダメージ」も減らせますし、次に似たような場面に遭遇した際に、失敗しづらくなります。

 

 もちろん、「小さな失敗」をした時だけでなく、「大きな失敗」をした時も、面白がるようにすれば、メリットは大きいです。

 

 ただ、「大きな失敗を面白がれる人」というのは、なかなかいません。

 

 そのため、失敗が大きすぎて「これはとても面白がれない」と思った際は、無理に面白がる必要はありません。

 

 無理に面白がると、逆に心理的ダメージが大きくなってしまったりするからです。

 

 大きな失敗をして、面白がれる心境ではない時は、とりあえず落ち込んで、その後、心理的ダメージが回復するのを待ちましょう。

 

 ただ、「大きな失敗」までは面白がれなかったとしても、日々の生活で、「小さな失敗を面白がるクセ」を付けておいた方がいいと思います。

 

 「小さな失敗」というのは、ほんの少し見方を変えるだけで、面白がれるものだからです。

 

 そのため、小さな失敗をした際には、「これは、面白がれるチャンスだ」と前向きに考えて、面白がれる要素を探すようにしましょう。

 

 そういうクセがついてくると、小さな失敗をした際に、パッと「面白がれる要素」が見つかるようになります。

 

 すると、小さな失敗をした際に、気分が落ち込みにくくなります。

 

 そして、それが完全に身に付けば、大きな失敗をした際でも、自動的に「面白がれる要素」を探すようになったりします。

 

 そうなれば、大きな失敗をした際にも、大きな心理的ダメージを負わなくて済むようになったりします。

 

 

 

「凄く楽しいことこと」は、ごくたまにする程度でいい

 人生を生きる中で、「凄く楽しいことを沢山したい」と考えている人は多いと思います。

 

 生きている生きている中では、辛いことが多いので、「凄く楽しいことを沢山したい」と考える人の気持ちはわかります。

 

 しかし、冷静に考えてみると、「凄く楽しいことばかりをしている人生というのは、そんなに良いものなのか?」と思ったりもします。

 

 実は、「凄く楽しいこと」というのは、プラス面だけでなく、マイナス面の副作用が大きかったりします。

 

 そのため、凄く楽しいことを頻繁にやっていると、その影響で、歪みも出やすくなります。

 

 「高級なステーキを食べること」は、多くの人にとって、凄く楽しいことです。

 

 しかし、高級ステーキばかり食べていると、体は不健康になります。

 

 そして、出費もかさみます。

 

 また、「高級ブランドの服」を買うことは凄く楽しいことですが、これも、出費がかさんで、後々、「なんで服にあんなにお金を使ったのだ」と後悔したりします。

 

 「海外旅行に行くこと」も凄く楽しいことですが、いった後、どっと疲れが出たりします。

 

 また、こちらもかなり費用がかかります。

 

 このように、「凄く楽しいこと」と言われていることというのは、「した後のマイナス面」が、かなり大きいことがわかります。

 

 そのため、「凄く楽しいことばかりをしていると、マイナス面が膨れ上がって、あまり良くない」ということがわかります。

 

 逆説的ではありますが、「凄く楽しいこと」を沢山しすぎると、人生を楽しめなくなる可能性が高いです。

 

 そのため、普段は、「そこそこ楽しいこと」をするようにして、ごくたまに「凄く楽しいこと」をするくらいの生活が、実は一番人生を楽しめるのではないかと思ったりもします。

 

 普段の生活では、「上の上」の楽しさを求めるのではなく、「中の上」や「上の下」くらいの楽しさを求めるようにします。

 

 そして、ごくたまに、「上の上」と思えるような凄く楽しいことをするのです。

 

 このくらいのバランスの方が、人生を楽しめるのではないでしょうか。

 

 また、「凄く楽しいこと」というのは、ごくたまにやるからこそ、より楽しめるという面もあります。

 

 「凄く楽しいことを、より楽しむ」ためにも、「凄く楽しいこと」は、ごくたまにやるくらいに留めましょう。

 

 そして、普段の生活では、「ささやかな楽しみ」を大事にしていきましょう。

 

 

 

「自分が好きな感じの定番商品」は、いつでも買える訳ではない

 洋服には、「定番商品」と呼ばれるものがあります。

 

 「ユニクロのスウェットシャツ」、「無印良品のシャツ」、「リーバイスの501のジーンズ」といった商品は、「定番商品」と言われたりします。

 

 こういった商品について、「いつでも買える」と思っている人は多いと思います。

 

 確かにそれは、ある意味では間違っていません。

 

 店頭に行けば、定番商品は、常に売っているからです。

 

 ユニクロの店舗に行けば、いつでもスウェットシャツが売っています。

 

 同じように、無印良品に行けばいつでもシャツが売っていますし、リーバイスに行けばいつでも501のジーンズが売っています。

 

 しかし、毎シーズン、全く同じものが売っている訳ではありません。

 

 定番商品であっても、毎シーズン、「素材、生地、シルエット」などが微妙に変化しています。

 

 そのため、実は、定番商品というのは、「全く同じものが買える」という訳ではありません。

 

 「3年前に出ていたものと全く同じものが欲しい」と思っても、シーズンが変わると、全く同じものが買えなくなるということはよくあります。

 

 

 

 

 

 ちなみに自分は、「ユニクロのスウェットシャツ」をかなり前から愛用しています。

 

 シンプルで、値段が手ごろで、着心地が良く、色んな格好に合わせやすいからです。

 

 そして、「着倒してボロボロになったら新しい物を買う」ということを繰り返しています。

 

 そうしているうちに、「ユニクロのスウェットシャツも、時期によってだいぶ違うな」ということに気づきました。

 

 昔のユニクロのスウェットシャツは、生地が肉厚でしたが、2022年のモデルは、だいぶ生地が薄くなっています。

 

 また、昔は裏地がふわふわだったこともありますが、2022年モデルは、あまりふわふわしていないパイルの裏地となっています。

 

 自分としては、「生地が肉厚で、裏地がふわふわのユニクロのスウェットシャツ」が好きなのですが、ユニクロの店頭に行っても、そういったスウェットシャツは、もう買えません。

 

 今後も、ユニクロからそういったスウェットシャツは出なそうな雰囲気です。

 

 そして、他のブランドを探しても、そういったスウェットシャツがなかなか見つかりません。

 

 似たようなものがあっても、値段が非常に高かったりします。

 

 仕方ないので、リサイクルショップで昔のユニクロのスウェットシャツを探したりしていますが、なかなか良いものが見つかりません。

 

 そういうことがあると、「昔、スウェットシャツの生地が肉厚で、裏地がふわふわだった時期に、もう少し余分に買っておけばよかった」と後悔したりします。

 

 おそらく、昔の自分は、「ユニクロのスウェットシャツなんか、いつでも買えるし、余分に買っておかなくてもいいや」と思って買わなかったのでしょう。

 

 ただ、今となっては、「その考えは間違っていたな」と思います。

 

 ユニクロのスウェットシャツはいつでも買えますが、「生地が肉厚で、裏地がふわふわのユニクロのスウェットシャツ」は、もう買えないのです。

 

 このように、「定番」と言われる商品でも、いつの間にか仕様が変わって、自分の好みではなくなってしまう時があります。

 

 そうなると、「自分が好きな、あの感じの商品はもう買えないのか」と、がっかりしてしまったりします。

 

 そのため、定番商品で「これは非常に良い」と思えるものを見つけた時は、「いつでも買える」と後回しにせず、買えるうちに買っておくことをおすすめします。

 

 そして、お金に余裕があれば、「予備」の分も買っておくといいでしょう。

 

 そうした方が、後悔が少なくなると思います。

 

 定番商品は、いつでも売ってはいますが、「自分が好きな感じの定番商品」は、いつでも買える訳ではありません。

 

 定番商品を買う際は、そのことをしっかりと頭に入れた上で、買うようにしましょう。

 

 

 

買い物をする際は、「コスパ」を最重視する

 買い物をする時、あなたは、どういった点を最重視するでしょうか?

 

 人によって、買い物で最重視するポイントは様々です。

 

 「安さ」を最重視する人もいれば、「質」を最重視する人もいます。

 

 ただ、安さを重視しすぎると、「安かったけれど、質が悪くて、すぐにダメになってしまった」ということになりがちです。

 

 あまり安さを重視しすぎると、「安物買いの銭失い」になってしまう可能性があります。

 

 逆に、質を重視しすぎると、「質は良いけれど、値段が高すぎた」ということになりがちです。

 

 そうなると、お金がどんどん減っていくので、あまり良くありません。

 

 こういったことを考えると、買い物の際、「安さ」や「質」を最重視するのは考えものです。

 

 そのため、買い物の際は、「安さ」や「質」を最重視するのではなく、「コストパフォーマンス」を最重視しましょう。

 

 買い物に行って、商品を見た時に、「この商品には、この値段以上の価値があるのか」と考えるようにします。

 

 そして、なるべく、「値段以上の価値がある」と思って商品を買いましょう。

 

 逆に、「値段以上の価値はない」と思った商品は、なるべく買わないようにしましょう。

 

 いくら質が良くても、「この値段以上の価値はない」と思った場合は、その商品の購入は見送りましょう。

 

 買い物の際に、こういったクセをつけるだけで、良い買い物ができる確率は格段に上がります。

 

 「良い商品でも、コスパが悪いものはなるべく買わない」と心がけると、高すぎるものを買ってしまうリスクを減らせます。

 

 それにより、お金の節約ができます。

 

 そして、コスパが良い物を買えるようになると、「値段以上の良い商品が買えた」と感じて、買い物の際の満足度が上がります。

 

 ただ、世の中には、「値段が非常に高かったとしても、なるべく良い物を買うべきだ。その方が満足できる」と言う人もいます。

 

 確かに、「一理あるな」と思う発言ですが、自分としては、この考え方には賛同できません。

 

 なぜなら、質が良い物を買ったとしても、値段が高すぎるものを買うと、それだけで満足度が下がるからです。

 

 コスパが悪い高級品を買うと、それを見た時に「ちょっと高すぎだよな」と思うことになります。

 

 物自体には満足していても、それを見るたびに、「ちょっと高すぎだよな」と思ってしまうのであれば、トータルの満足度は下がってしまいます。

 

 例えば、コスパの悪い高級ブランドの服を買ったとします。

 

 コスパが悪かったとしても、高級ブランドの服であれば、見た目や着心地に満足できる場合が多いでしょう。

 

 ただ、コスパが悪いと、デザインや着心地は気に入っていても、その服を着るたびに、「この服、ちょっと高すぎたよな」と思い、テンションが下がったりします。

 

 そういったことで、着るたびに毎回ちょっとテンションが下がるのであれば、満足度はイマイチになってしまうのではないでしょうか。

 

 一般的に、洋服の場合、ハイブランドの服は、質の高いものが多いです。

 

 しかし、「ブランド料」として、その物の価値以上に、高い値段をつけている場合がほとんどです。

 

 ハイブランドの洋服は、全般的に、「コスパが悪い」と言えます。

 

 そのため、コスパを最重視して洋服を買う場合は、ハイブランドの服は、避けた方が無難です。

 

 もう少し、安い価格帯のブランドで洋服を探すようにしましょう。

 

 逆に、「ユニクロ」や「無印良品」の服は、商品の質の割に、安い価格を付けている場合が多いです。

 

 コスパを最重視して洋服を選ぶなら、まずはこの辺りのブランドから探してみましょう。

 

 また、洋服に限らず、ブランド品というのは、「ブランド料」として、その物の価値以上に高い値段をつけているケースがあるので、注意が必要です。

 

 有名なブランドの商品というのは、質が高いものが多いのは事実ですが、高すぎる価格を付けていることも多いので、ブランドの名前に惑わされないようにしましょう。

 

 買い物の際には、ブランドに惑わされず、「商品そのものの価値」を見るように心がけてください。

 

 「このブランドならば良いはずだ」「このブランドはイマイチ」といった先入観は捨てて、商品そのものの価値を見るようにしましょう。

 

 そうした方が、コスパが良い物を買いやすくなります。

 

 そして、それを繰り返して、「物自体の価値を見る目」が磨かれていくと、「コスパが良い物」を変える確率がさらに上がっていきます。

 

 

 

「なぜ差別をしてはいけないのか」という理由を理解することの重要性について

 昔に比べると、最近は、「差別に対する批判」が強くなってきているように感じます。

 

 アメリカでは、「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)」が盛り上がり、「黒人差別をなくそう」という運動も盛り上がりを見せています。

 

 しかし、それでもなお、差別は依然として行われていて、なかなかなくなりません。

 

 一言で「差別」と言っても、世の中には色んな種類の差別があります。

 

 「人種差別」「男女差別」「身長による差別」「生まれた場所による差別」など、挙げていけばきりがありません。

 

 そもそも、「差別」とは、どういうことでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

差別とは

 自分としては、差別というのは、「自分ではどうしようもないことで、人から責められること」だと思っています。

 

差別の問題点

 人間、「自分に非がある」と思うことならば、人から責められても「自分が悪いのだから仕方ない」と思うでしょう。

 

 しかし、「差別される」場合は、自分に特に非がないのに、人から責められます。

 

 例えば、「どのような人種に生まれるか」というのは、完全な運です。

 

 自分で決めることはできません。

 

 しかし、たまたま黒人として生まれると、白人として生まれる場合に比べ、人種差別を受ける機会が多くなりがちです。

 

 差別され、「自分に非がないのに人から責められる経験」をすると、当然ですが、心は非常に傷つきます。

 

 何度も心が傷つく経験をすると、心理面に悪影響を与えるため、日常生活に支障をきたす場合もあります。

 

 そうなると、社会的に余計に苦しい立場に置かれたりします。

 

 また、差別されると、「人との交流の機会が制限される」というデメリットもあります。

 

 例えば、「黒人差別」が強い地域では、「黒人は黒人同士で付き合う」ことになります。

 

 差別されるのが嫌で、「白人と関わらないようにしよう」となるからです。

 

 しかし、人種が違ったとしても、「気が合う人」はいます。

 

 白人と黒人でも、「話してみたら、凄く気が合った」というケースも沢山あります。

 

 しかし、黒人差別が強い地域では、「気の合う白人と交流する機会」が奪われてしまいます。

 

 「気の合う人と交流する」のは、人生の中でも非常に楽しい時間なので、そういう機会が奪われてしまうというのは、もったいないことだと思います。

 

 そして、本人に才能があっても、それを社会的に活かせなくなるというデメリットもあります。

 

 非常に才能のある人物でも、「黒人だから」「女性だから」「スラム街の生まれだから」といった理由で差別されて、社会的に認められなかったりします。

 

 そうなると、差別された本人は、「自分には人より優れた才能があるのに、なんでそれを社会的に活かせないんだ」と、やるせない気分になるでしょう。

 

 そして、それは、本人が傷つくだけでなく、「才能を社会に活かせない」という意味では、社会としても損失が大きいと思います。

 

日本の「差別に対する教育」の問題点

 日本の学校では、道徳の時間などで、「差別をしてはいけません」と教えています。

 

 しかし、「差別をしてはいけない」と教えていたとしても、「なぜ差別をしてはいけないのか」ということについては、あまり深く教えていないような気がします。

 

 これはとても残念なことです。

 

 なぜなら、ただ「差別をしてはいけません」と教えられるより、「差別をしてはならない理由」をしっかり理解した方が、差別をしなくなる確率が高くなるからです。

 

 試しに、日本の学校を卒業した人に、「なんで差別をしてはいけないの?」と聞いてみてください。

 

 そうすると、明確にその理由を答えられる人は非常に少ないはずです。

 

 大半の人が、はっきりした理由を答えず、「差別はとにかくいけないことだから、してはならない」と言うと思います。

 

 そういう人が多いのは、「日本の教育」による部分が大きいと思います。

 

 日本の学校は、基本的に「先生が授業で言ったことを、生徒が受動的に学ぶ」という形がとられます。

 

 授業の中で、「生徒が積極的に自分の意見を言う」ことが少なくなっています。

 

 そして、先生も、「与えられたカリキュラムをこなす」ことに必死なので、「生徒がしっかり理解するまで説明する」ことを省きがちです。

 

 そのため、生徒は、「とりあえず、先生の言ったことを暗記しておけばいい」となりがちです。

 

 道徳の授業ならば、なおさらそうなるでしょう。

 

 道徳の授業で、下手に自分の意見を言ったら、先生から「あいつは不道徳なやつだ」と思われて、成績を下げられるおそれもありますから。

 

 日本の学校は、こういう仕組みのため、必然的に、「なぜ差別をしてはいけないのか」についてきちんと説明できる人が少なくなります。

 

 「なぜ差別をしてはいけないのか」という理由を理解していないと、「差別がいけないことである」ということがしっかりと身に付かない可能性が高くなります。

 

 例えば、他の学校の勉強でも、「丸暗記」と「意味を理解して覚える」のでは、身に付き方が全く違います。

 

 「丸暗記」の場合は、「一時的に覚えているだけ」という感じなので、テストが終わったら、パッと頭から抜けてしまいます。

 

 そして、テストの際に応用問題が出ると、丸暗記では対応できません。

 

 それに対して、意味を理解して覚えると、しっかりと身に付くので、テストが終わったとしても忘れません。

 

 テストで応用問題が出ても、意味を理解して覚えていると、それにも対応できます。

 

 「差別はいけないことである」という知識を身に付けることも、これと一緒です。

 

 「差別はいけないことである」と丸暗記しているだけだと、しっかりと身に付いていないので、頭から抜けやすくなります。

 

 そのため、何の気なしに、差別をしてしまうことも増えます。

 

 また、丸暗記すると、「授業で教わった場面で、差別に気をつければいいんだな」という考え方になります。

 

 しかし、現実には、授業で教わった場面でのみ差別が行われている訳ではありません。

 

 様々な場面で、差別が存在します。

 

 ただ、「授業で教わった場面で、差別に気をつければいいんだな」と考えていると、それ以外の場面で無意識的に差別を行って、他者を傷つけてしまうことがあります。

 

 そして、差別をした本人は「自分は差別をしていない」と思い込んでしまっています。

 

 そういう人が増えると、なかなか社会から差別は減りません。

 

 こういったことを防ぐためには、授業の中で「差別はなぜいけないのか」という理由をしっかり教えていくべきだと思います。

 

 生徒にその理由をしっかり理解してもらうためには、「先生が一方的に喋って、生徒が黙って聴いている」という授業スタイルでは不可能です。

 

 道徳の授業の中で、「ディスカッション」の時間を設けるべきだと思います。

 

 「文学」「映画」「音楽」といった芸術作品には、「差別」をテーマにしたものが色々あります。

 

 その中から、何か一つ作品を選び、その作品を鑑賞した後、ディスカッションするのも面白いと思います。

 

 例えば、「差別をテーマにした音楽」だと、ブルーハーツの名曲「青空」があります。

 

www.youtube.com

 

www.uta-net.com

 

www.bamentekiou.com

 

 

 

 

 「なぜ差別をしてはいけないのか」ということを理解するためには、この曲は非常に良い教材になると思います。

 

 まず、この曲の歌詞が印刷されたプリントを生徒に配ります。

 

 そして、この曲を聴いた後、グループごとに分かれて、「なぜ差別をしてはいけないのか」ということを生徒同士でディスカッションします。

 

 その後、グループごとにディスカッションの内容を発表して、それに対して先生がコメントします。

 

 こういうことをすれば、「なぜ差別をしてはいけないか」について、しっかりと理解しやすくなるのではないでしょうか。

 

 そして、学生時代にしっかりと理解して身に付けておくと、大人になってからも、「無意識に行ってしまう差別」を減らせるはずです。

 

 そういう人が増えれば、段々と、「差別が少ない社会」になっていくのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

まとめ

 ここまで、「差別」に関して、色々と語ってきました。

 

 「日本は差別の少ない国である」と考えている日本人は多いと思います。

 

 確かに、日本では、「誰が見てもわかるような、あからさまな差別」は少ないかもしれません。

 

 しかし、よく見てみると、実は、様々な場面で差別が行われていたりします。

 

 日本には、「学校でのいじめ」や「職場でのいじめ」が、沢山行われています。

 

 いじめも、多くの場合、「差別」によるものです。

 

 本人にはどうしようもないことで差別され、いじめられます。

 

 「身長が非常に低い」とか「顔に大きなあざがある」とか、そういった本人にはどうしようもないことでいじめられているケースは多々あります。

 

 これらは、れっきとした「差別」です。

 

 差別を伴ういじめで精神疾患になる人や、自殺をしてしまう人もいます。

 

 そして、メディアがいじめの問題を取り上げて、「いじめをやめよう」と呼びかけても、そういったいじめはなかなか減りません。

 

 こういった日本の現状を見ると、「日本における差別の問題は、目立ちにくいけれど、実は根が深いな」と思ったりもします。

 

 差別が日常的に行われる社会は、「差別をする一部の人間」には天国かもしれませんが、差別される側になると地獄です。

 

 自分としては、そんな社会は嫌です。

 

 そして、自分以外にも、多くの人が「そんな社会は嫌だ」と思っているはずです。

 

 世の中のほとんどの人は、「差別のない世界」を望んでいるはずです。

 

 日本社会の中で行われている差別を減らしていくためには、「教育の部分」から変えていくことが必要です。

 

 なぜなら、学校教育というのは「これからの社会を作るための土台」だからです。

 

 今、学校で学んでいる生徒は、学校を卒業すると、社会に出ます。

 

 そして、社会に出た人たちが、「今後の社会」を作っていきます。

 

 学校で、「なぜ差別をしてはいけないのか」という理由をしっかり教えないと、「差別はいけないことである」ということが、しっかりと身に付きません。

 

 それがしっかりと身に付いていない人たちが社会作ると、「差別のない社会」を実現することは難しいです。

 

 仮に、今の大人だけが「どうして差別をしてはいけないのか」という理由を理解していたとしても、子供が理解していなければ、その子供が大人になる頃には、また差別が生まれます。

 

 そのため、「将来的に、差別のない社会を作りたい」と思ったら、学校教育の内容を見直す必要があると思います。

 

 また、学校教育の中で、教師は、『「自分は決して差別はしない」と考えてはいけない』と教えるべきだと思います。

 

 なぜなら、「自分は決して差別はしない」考えると、自分では意識しないうちに、誰かを差別してしまうことがあるからです。

 

 差別というのは、差別している人自身が、「自分は差別をしている」と気づいている場合と、気づいていない場合があります。

 

 しかし、差別する人自身が気づいていなかったとしても、差別された側は傷つきます。

 

 「自分は決して差別はしない」と考えている日本人は意外と多い気がしますが、その考え方は危険です。

 

 そういう考え方だと、「自分は、もしかしたら、知らないうちに差別をしているのではないか?」というセルフチェックが働かなくなります。

 

 そのため、「自分は決して差別はしない」と考えている人ほど、無自覚に、様々な差別を行っていたりします。

 

 セルフチェックをうまく働かせるためには、「自分は決して差別はしない」という考えは捨てなければなりません。

 

 差別を減らすためには、定期的に、「自分は、知らないうちに誰かを差別していないだろうか?」と自問自答する必要があります。

 

 そのため、学生の頃から、生徒に、「自分は、もしかしたら、自分が気づかぬうちに誰かを差別している可能性がある」という意識を持たせることは重要です。

 

 この記事を読んで、「確かに、学校教育の中でこういうことを教えた方がいい」と考える方は、結構いると思います。

 

 しかし、現実的には、これを実現するのは、かなり厳しい状況です。

 

 現在は、日本の教員の負担が非常に増えています。

 

 「とりあえず、日常業務をこなす」だけで精一杯の教員がほとんどです。

 

 そのため、「授業にディスカッションを導入した方が良い」と言ったところで、「そんな時間はない」と一蹴されるでしょう。

 

 本当に子どもの将来のことを考えるなら、もっと教員数を増やして、教員の負担を減らして、ディスカッションの時間を増やした方が、教育の質は上がると思います。

 

 しかし、文部科学省や教育委員会は、そういった方針に転換する気はなさそうなので、現状を見ると、「今後も、日本社会の中で、差別やいじめは減らないだろうな」と思わされます。

 

 ただ、そんな厳しい教育現場の中でも、『「差別はなぜいけないのか」という理由を生徒に理解してもらいたい』と考えている教員が全くいない訳ではないと思います。

 

 そのため、こういったことを真剣に考えている教員の方がいたら、試しに、ブルーハーツの「青空」を、教材として使ってみてほしいですね。

「消費税をなるべく払わないようにしよう」と心がけると、無駄遣いが減る

 最近は、ウクライナ情勢の影響もあり、物価がどんどん上がっています。

 

 ただ、ウクライナ情勢が悪化する前から、既に値上がりの兆候はありました。

 

 そして、ロシアとウクライナとの戦争が起こったことで、さらに値上がりの傾向が強くなりました。

 

 今後も、値上がりの傾向が治まる気配はありません。

 

 そして、日本経済も停滞しています。

 

 経済成長は見込めず、給料も上がる気配がありません。

 

 非正規雇用が増え、「安定した職業」もどんどん少なくなっています。

 

 少子高齢化が進んでいるので、国内市場の規模はどんどん狭まっていくと思われます。

 

 「世界に輸出して儲けよう」としても、日本企業の国際競争力は落ちています。

 

 そのため、「輸出で儲けること」も、あまり期待できません。

 

 社会がこういう状況なので、「無駄遣いを減らして、節約したい」と考えている人が増えていると思われます。

 

 自分としても、これまでは、「無駄遣いを減らして、なんとか節約しよう」という意識でやってきました。

 

 しかし、そう心がけても、なかなかうまくいきませんでした。

 

 そのため、「何か少し考え方を変えた方がいいか」と考えるようになりましました。

 

 色々と考えてみて、ふと、「『節約しよう』と心がけるより、『消費税をなるべく払わないようにしよう』と心がけるといいのでは?」と思いつきました。

 

 そこで、「消費税をなるべく払わないようにしよう」と心がけて、生活をしてみました。

 

 すると、以前に比べて、明らかに無駄遣いが減って、「これはなかなかいいかも」と思うようになりました。

 

 個人的に、消費税は良い税だとは思いません。

 

 様々な問題点のある税だと感じています。

 

 消費税の制度自体に納得していないので、正直、なるべくなら消費税は払いたくありません。

 

 しかし、何かを購入すると、自動的に消費税を取られてしまいます。

 

 ただ、消費を抑えれば、消費税として取られる額は少なくなります。

 

 「消費税をなるべく払いたくない」と思ったら、一番有効な対策は「消費を抑えること」です。

 

 「消費税をなるべく払わないようにしよう」と心がけてそれを実践すると、消費税を無駄に取られなくなります。

 

 そして、無駄遣いも減ってお金の節約にもなり、一挙両得です。

 

 そのため、消費税に納得がいっていない人にとっては、「消費税をなるべく払わないようにしよう」と心がけることは、凄く良いことなのではないでしょうか。

 

 ただ、「消費税の問題点」と言っても、ピンとこない人もいるかと思います。

 

 そこで、この後、「消費税の問題点」について詳しく見ていきます。

 

 その後、「節約しよう」と心がける場合と、「消費税をなるべく払わないようにしよう」と心がける場合の違いについても見ていきます。

 

 

 

 

消費税の問題点

生活必需品を買う場合にも消費税がかかる

 日本は消費税制度が導入されているので、何かを購入すると、それに対して必ず消費税がかかります。

 

 贅沢品を買う場合にも、もちろん消費税がかかりますし、食料品などの生活必需品を買う場合にも、8%の税金がかかります。

 

 これを「当たり前」と考えている人も多いでしょう。

 

 しかし、冷静に考えると、「生きていくためにどうしても必要な食料品」にまで税金をかけるのは、ちょっとどうなのかなと思ったりもします。

 

逆進性が高い

 消費税は、年収が高い人からも低い人からも、平等に同じ税率を徴収します。

 

 この点に関して、「みんな一律の税率なら、平等でいいじゃないか」と言う人もいます。

 

 ただ、消費税は、本当に平等な制度なのでしょうか?

 

 消費税の是非について議論される時、消費税の持つ「逆進性」が問題視されることがあります。

 

 「逆進性」とは、年収の低い人ほど、年収に占める税の負担割合が大きくなるとことです。

 

 試しに、「年収200万円のAさん」と、「年収2000万円のBさん」を比べてみましょう。

 

 どちらも、年間にかかる食費は70万円だとします。

 

 Aさんが年間で払う食料品に対する消費税は、70万円×8%=5.6万円です。

 

 Bさんが年間で払う食料品に対する消費税は、70万円×8%=5.6万円で、Aさんと同額になります。

 

 次に、年収に占める食料品の消費税の割合を比べてみます。

 

 Aさんの場合は、年収に占める食料品の消費税の割合は、2.8%です。

 

 Bさんの場合は、年収に占める食料品の消費税の割合は、0.28%になります。

 

 これを見ると、「年収の低い人ほど、年収に占める消費税の割合が高くなる」ことがわかります。

 

 つまり、消費税というのは「年収の低い人に厳しい税制」と言うことができます。

 

 税金というのは、本来、「所得の再分配」をするために徴収するものだと思います。

 

 本来は、「余っているお金があったら、それを国のお金として貯めて、国民のために使ったり、困っている人のために使おう」という性質のものです。

 

 しかし、消費税は、「年収が低く生活がギリギリな人からも容赦なく徴収する税」なので、納得がいきません。

 

 消費税というのは、「所得の再分配」という趣旨からはずれた税だと思います。

 

 そのため、自分としては、そういう税金を払うのは、気が進みません。

 

 消費税は廃止して、法人税の税率を上げたり、高収入の人の税率をもっと上げた方がいいと思っています。

 

 その方が、所得の再分配は推進されるはずです。

 

社会保障に使われているという実感がない

 自分以外にも、消費税に対して不満を持っている国民は多いと思います。

 

 しかし、政府や財務省は、「消費税はで徴収した税金は、社会保障に使います」と言っています。

 

 こう言われると、「あまり消費税は払いたくないけれど、社会保障に使われるなら仕方ないか」と思ってしまう人が沢山いるはずです。

 

 しかし、消費税は、本当に社会保障に使われているのでしょうか?

 

 消費税は、徐々に税率が上がり、現在は、食料品などの生活必需品を除くと、10%になっています。

 

 ただ、一国民として、「消費税が上がって、日本の社会保障が充実してきた」という実感が全くありません。

 

 むしろ、「どんどん日本の社会保障は低下してきている」という感覚があります。

 

 「医療」に関して言えば、国民健康保険料は上がってきていますし、病院に払う自己負担額も上がっています。

 

 医療関係者の給与についても、激務の割には低い水準です。

 

 「福祉」についても、保育所の数はまだまだ少ないですし、保育士さんの給与は、生活するのがやっとといった状況です。

 

 福祉施設も、経済的に余裕のないところが多いですし、職員の給与も、非常に低い水準となっています。

 

 そして、「年金」については、「老齢年金支給額」もどんどん引き下げられて、支給開始年齢は後ろに引き上げられてきています。

 

 こういったことを見ると、「日本の社会保障は、非常に低い水準にある」ことがわかります。

 

 自分は、政府の人間でも、官僚でもないため、「消費税が社会保障に使われているか」をはっきりと確認することができません。

 

 しかし、「社会保障の水準が非常に低い現状」を見ると、「消費税は社会保障に使われていない」と考えるのが自然なのではないでしょうか。

 

 時間がある方は、試しに、Google検索で「消費税 社会保障」とキーワードを打ち込んでみてください。

 

 サジェストとして「嘘」「使われていない」というキーワードが上位に出てきます。

 

 これは、「消費税が社会保障に使われているのは嘘である」「消費税は社会保障に使われていない」と考えている人が多いということです。

 

 そして、「消費税は社会保障に使われていない」といった内容の記事も沢山あります。

 

 そういった記事を読んでみると、きちんとデータを示して説明しているものも多く、納得できる内容のものが多いです。

 

 これらのことを含めて考えると、自分としては、「消費税は社会保障に使われている」とはとても思えません。

 

 それを考えると、余計に消費税を払うのは気が進みません。

 

「節約しよう」と「消費税をなるべく払わないようにしよう」との違い

 消費税は、「色んな意味で払いたくなくなる税」だということがわかったと思います。

 

 そして、納得せずに払った消費税が、社会保障ではなく、「政治家の裏金」に使われていたりしたら、たまったものではありません。

 

 そういうことはないと思いたいですが、今の日本の政治状況を考えると、そういうことは十分にありえます。

 

 もし、そんなことに使われていたとしたら、「むしろ消費税を払わない方が日本のためになる」とも言えます。

 

 こういうことを考えると、「余計な消費税はできるだけ払いたくない」という気持ちになります。

 

 そういったことを踏まえて、ここからは、「節約しよう」と心がけることと、「消費税をなるべく払わないようにしよう」と心がけることの違いについて説明していきます。

 

 ただ、こう言うと、「結局、節約するのはどちらも同じなのだから、心がけを変えても、あんまり変わらないんじゃない?」と思う方もいるでしょう。

 

 しかし、実際は、「心の持ち方」一つで、消費行動は大きく変わります。

 

「節約しよう」と心がけた場合

 無駄な出費を抑えようとして「節約しよう」と心がけている人は多いと思います。

 

 しかし、「節約しよう」と心がけると、どうしても「受け身の姿勢」になります。

 

 「節約しよう」と心がけると、「切り詰めて我慢する」という考え方になってしまいます。

 

 欲しいものがあったのに我慢した時は、「欲しいものが買えなかった」という残念な気持ちや悔しさといった「負の気持ち」が残ります。

 

 その「負の気持ち」は、「ストレス」として心の中に溜まっていきます。

 

 「負の気持ち」が積み重なっていくと、そのストレスを解消したくて、「パッとお金を使いたいな」という気持ちが湧いてきます。

 

 そうなると、「たまには、自分へのご褒美をあげよう」と言い訳して、無駄なものを買ってしまったりします。

 

 そのような「自分へのご褒美」が積み重なると、結構な金額になります。

 

 このように、「節約しよう」と心がけると、思ったように無駄遣いが減らせないことが多いです。

 

「消費税をなるべく払わないようにしよう」と心がけた場合

 それに対して、「消費税をなるべく払わないようにしよう」と心がけると、受け身の姿勢ではなく、「余計なものは買わないぞ」という積極的な姿勢に変わります。

 

 何か欲しいものがあった時、「どうしても必要なものではないから、我慢するか」と考えて、購入を見送ることもあると思います。

 

 そんな時、「節約しなきゃ」という意識だと、「買えなくて残念」とか「買えなくて悔しい」という気持ちになります。

 

 しかし、「消費税をなるべく払わないようにしよう」という意識だと、「国に余計な税金を納めなくて済んだ」と思うので、購入を見送っても、「負の気持ち」はあまり湧いてきません。

 

 むしろ、「良い選択をした」と、清々しい気持ちになったりします。

 

 実際、自分自身、「節約しよう」と考えていた時は、無駄遣いがなかなか減りませんでした。

 

 しかし、欲しいものがあった時に、「国に消費税を払うのはしゃくだな」と思うようになってからは、だいぶ無駄遣いは減りました。

 

 「消費税をなるべく払わないようにしよう」と心がけると、「欲しいけれど、たいして必要でないもの」を我慢した時に、前向きな気持ちになります。

 

 そういう気持ちになると、「またやろう」と思えてくるので、自然と無駄遣いが減っていきます。

 

まとめ

 「消費税」と「無駄遣いを減らす」ということに関して、色々と語ってきましたが、いかがでしたでしょうか。

 

 今後、日本社会は、経済的に、どんどん厳しい状況になっていくと思われます。

 

 そのため、経済的に余裕がなくなる人の割合は、どんどん増えていくはずです。

 

 「無駄遣いを減らすこと」は、今後さらに重要になってくると思います。

 

 今現在、「なるべく無駄遣いを減らしたい」と思っている方は、「消費税をなるべく払わないようにしよう」と心がける方法を試してみてください。

 

 自分としては凄く効果があったので、「無駄遣いがなかなかなか減らせない」と悩んでいる方は、一度試してみる価値はあると思います。

 

 ただ、「無駄遣いを減らす」ことを行う中で一つ注意してほしいのは、「それが無駄遣いかどうか」は、人によって異なるという点です。

 

 例えば、「ライブを見に行くことが生きがいのAさん」「おいしいものを食べることが生きがいのBさん」がいたとします。

 

 Bさんは、Aさんが高いチケット代を出してライブに行っているのを見ると、「ライブにあんな大金を払うなんて無駄遣いだ」と思うでしょう。

 

 しかし、Aさん自身は、「ライブを見ると心から楽しめるので、無駄遣いではない」と感じています。

 

 逆に、Bさんが高級な食べ物を食べているのを見ると、Aさんは「食べ物にあんなにお金を出すなんて無駄遣いだ」と思うでしょう。

 

 しかし、Bさん自身は、「おいしいものを食べている時は本当に幸せなので、無駄遣いではない」と感じています。

 

 このように、何かにお金を使った場合、それに対して「無駄遣い」と思う人もいれば「無駄遣いではない」と思う人もいます。

 

 そうなった場合、「誰を信じて、無駄か無駄ではないか判断すればいいのだ?」と迷ってしまう人もいるでしょう。

 

 そんな時は「自分の感覚」を信じましょう。

 

 他人が「無駄遣いだ」と言ってきても、自分が「価値がある」と思って遣ったら、それは無駄遣いではありません。

 

 自分でお金を遣うのですから、「自分の感覚」で決めるのが一番です。

 

 逆に、他人が「これは買う価値があるよ」と言ってきても、自分自身が「価値ある」と思えないものを買ったら、それは無駄遣いです。

 

 人間、「生きるために絶対に必要なもの」だけを購入すれば、とりあえず生きられます。

 

 ただ、それだと、「心が死ぬ」可能性が高いです。

 

 心が死んだ状態だと、生きていてもあまり楽しくありません。

 

 心を殺さないためには、他人からは無駄に思えても、自分では価値があると思えるものをしっかり購入することが大事です。

 

 そのため、お金に少し余裕がある時は、生きることに絶対必要ではなくても、自分が「価値がある」と思えることに、きちんとお金をかけましょう。

 

 それが「有効なお金の使い方」だと思います。

 

 せっかく貴重なお金を出すなら、自分で価値があると思えるものをしっかり買うようにしましょう。

 

 2022年3月現在、日本国内で買い物をすると、必ず消費税がかかります。

 

 そして、消費税がきちんと社会保障に使われていないとしたら、そのお金は、多くの人にとって「無駄金」となってしまう可能性が高いです。

 

 もちろん、「無駄なもの」を買う際にも、しっかりと消費税がかかります。

 

「無駄なものの商品代金」の他に消費税も取られるという点では、「二重の意味での無駄遣い」になってしまったりするので、無駄なものは買わないように気を付けましょう。

 

 

 

趣味が多すぎる人は、「趣味の断捨離」をしよう

 みなさんは、何か「趣味」を持っているでしょうか?

 

 「あまり趣味がない」という人もいれば、「沢山趣味を持っている」という人もいると思います。

 

 人から「何か趣味はある?」と聞かれた時に、「無趣味だ」と言うと、「つまらない奴」と思われてしまったりします。

 

 逆に「趣味が非常に多い」と言うと、「多趣味でいいね」と好感を持たれたりします。

 

 確かに、趣味が全くないというのも、寂しい気がします。

 

 少しくらいは、趣味を持っていた方が人生は楽しくなると思います。

 

 ただ、実は「趣味が多すぎる」のも問題です。

 

 そこで、ここからは、「趣味が多すぎることによるデメリット」について、詳しく見ていきます。

 

 また、その後は、「趣味を絞り込む方法」「趣味を絞り込むメリット」についても詳しく解説していきます。

 

 

 

 

 

 

 

趣味が多すぎるデメリット

時間がなくなる

 趣味というのは、どうしても、ある程度の時間がかかります。

 

 そのため、趣味が多くなると、どうしても時間がなくなります。

 

お金がなくなる

 趣味には様々なものがありますが、「全くお金がかからない趣味」はほとんどありません。

 

 例えば、「ランニング」が趣味の人は、あまりお金がかからないと思われがちです。

 

 しかし、良いランニングシューズやランニングウエアを買ったりすると、お金がかかります。

 

 また、成績が伸びて、マラソン大会に出たりすると、交通費や参加費がかかったりもします。

 

 このように、一見お金がかからなそうな趣味でも、実は意外とお金がかかります。

 

 そのため、趣味が沢山あると、どんどんお金が減っていくので、貯金もしづらくなります。

 

心や体が疲れる

 趣味というのは、「精神的な満足感を得る」ために行うものです。

 

 しかし、あまりに色んな趣味をやりすぎると、刺激が多くなりすぎて、逆に心が疲れてしまう時があります。

 

 また、心だけでなく、体も疲れてしまったりします。

 

 

 

 

 

趣味が多すぎる人は、「趣味の断捨離」を行うと良い

 このように、趣味が多すぎると、様々なデメリットがあることがわかったと思います。

 

 自分の趣味を見直してみた時に、「ちょっと多すぎるな」と思ったら、趣味を減らしてみましょう。

 

 「趣味の断捨離」をするのです。

 

 趣味が多い人は、「趣味」と言っても、「これは大好き」という趣味もあれば、「これは、まあまあ好き」という趣味もあると思います。

 

 そう考えた時に、「まあまあ好き」という趣味は、趣味から外しましょう。

 

 そして、「大好き」と思える趣味だけに絞り込んでみましょう。

 

趣味を「5つくらい」に絞り込む

 ただ、「大好きな趣味に絞り込む」といっても、「一体、いくつくらいに絞ればいいのだろう?」と疑問に思う人もいるでしょう。

 

 自分としては、「5つくらい」に絞り込むことをおすすめします。

 

 5つくらいであれば、それぞれの趣味をバランス良く楽しめるからです。

 

 もちろん、「どうしても5つに絞り込めない」という人は、6個になったり、7個になったりしても構いません。

 

 そして、「5個よりもっと絞り込める」という人は、4個や3個に絞り込んでもOKです。

 

 「5つ」というのは、「大体の目安」と考えましょう。

 

 ちなみに、自分の場合は、「ブログを書く」「ファッション」「プロ野球観戦」「音楽鑑賞」「読書」の5つに絞りました。

 

 自分は、この他にも、「食べ歩き」「ウォーキング」「水泳」なんかも好きです。

 

 ただ、この3つに関しては、絞り込んだ5つと比べると「好き」の度合いが劣ります。

 

 「そこそこ好き」くらいのレベルです。

 

 そのため、この3つは、趣味からは外して、「気が向いた時になんとなくやる」ことにしました。

 

 この5つに趣味を絞ってみてからは、なかなか良い形でそれぞれの趣味と向き合えている気がします。

 

 

 

 

 

 

趣味を絞り込むメリット

 ここでは、趣味を絞り込むことを勧めていますが、そうなると、「具体的なメリットは何?」と思ったりするでしょう。

 

 具体的なメリットがわからないと、趣味を絞り込む気にならないかもしれません。

 

 そこでここからは、具体的なメリットを紹介していきます。

時間に余裕ができる

 趣味を絞り込むと、「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」という感じにはなりません。

 

 「好きなものにじっくりと向き合う」というスタンスになります。

 

 そうなると、時間にも余裕ができます。

 

趣味にかけるお金を節約しやすくなる

 趣味を減らすと、趣味にお金を使う頻度は減るので、トータルで使う金額は減るケースが多いです。

 

 趣味にかけるお金を節約しやすくなるのもメリットです。

 

 しかし、中には、趣味を絞っても、「少ない趣味に大金をつぎ込んでしまう人」もいます。

 

 そのため、しっかり家計簿をつけたり、「趣味にかける費用は、月にこれくらい」といった縛りを作ったりして、出費をコントロールする必要はあります。

 

 ただ、そういった「趣味に関する出費の管理」も、趣味が少ない方が、やりやすくなります。

 

 多趣味で、趣味にお金を使う機会が多いと、出費を管理しきれなくなり、「気づいたらとんでもない額を使っていた」ということもありえます。

 

 多趣味になればなるほど、趣味にかかるお金の管理は難しくなります。

 

それぞれの趣味を深く掘り下げられる

 趣味が少ないと、「それぞれの趣味を深く掘り下げられる」というメリットがあります。

 

 趣味が多くなると、それぞれの趣味に対して、多くの時間を割くことができません。

 

 また、多くの時間を割けないとなると、その趣味に注ぎ込めるエネルギーも低くなりがちです。

 

 そうなると、「それぞれの趣味を深く掘り下げること」が難しくなります。

 

 趣味というのは、「掘り下げれば掘り下げるほど、その奥深さに気づく」ものです。

 

 せっかく趣味として取り組んでいるのに、それに気づけないのは、もったいないと思います。

 

 せっかく「大好きな趣味」があっても、「そこそこ好きな趣味」が沢山あると、「大好きな趣味」の奥深さに気づけなくなったりします。

 

 それならば、「そこそこ好きな趣味」を断捨離して、その分の時間とエネルギーを「大好きな趣味」に注ぎ込めば、その趣味をもっと好きになるのではないかと思います。

 

 そうした方が、「人生の満足感」は上がるはずです。

 

趣味を掘り下げると、趣味がお金を生むこともある

 「趣味を掘り下げること」には、別のメリットもあります。

 

 趣味を掘り下げると、その趣味が「お金を生んでくれる可能性」が高まります。

 

 世の中、「趣味を徹底的に深く掘り下げている人」はそれほど多くありません。

 

 そこまでやるのは、非常に大変だからです。

 

 そういう人は珍しいので、そういう人を見ると、「これは凄い。お金を払ってもいい」という人や企業も出てきます。

 

 ちなみに、自分の場合は、「趣味で始めたブログ」が、いつの間にか、お金を生むようになりました。

 

 最初は、「文章を書くのは割と好きだし、試しにやってみよう」という感じで始めました。

 

 しかし、ブログを書いていると、段々とブログの奥深さに気づき、ブログにハマっていきました。

 

 自分で書くだけでなく、他の人のブログを参考に見るようになりました。

 

 そして、「この人のブログ、凄いな」と思う人がいると、その人のやり方を取り入れて、より良い方法を模索してきました。

 

 そうしているうちに、「せっかく続けているなら収益化しようかな」と思うようになりました。

 

 その後、Googleアドセンスに合格して、アフィリエイトも利用するようになったことで、ブログによる収益が出るようになりました。

 

 普通、趣味というのは「お金を使うもの」です。

 

 ただ、深く掘り下げると、逆に「お金をもらえる」場合もあります。

 

 このブログも、まさにそんな感じです。

 

 世の中、ブログを書いている人は沢山います。

 

 しかし、ほとんどの人が、日記感覚で適当に書いているだけです。

 

 それだと、「お金を払いたい」という人や企業は出てきません。

 

 それに対して、自分のこのブログは、収益が出ています。

 

 収益が出るということは、「このブログはお金を払う価値がある」という人や企業がいるということです。

 

 そういう事実を目の当たりにすると、改めて、「趣味を深く掘り下げると、いいことがあるな」と実感します。

 

 そして、自分の過去の記事を見たり、他のブロガーの記事を見たりすると、「もっと深く掘り下げて、さらに良い文章を書きたいな」という気持ちも湧いてきます。

 

 そのため、ブログに関しては、「掘り下げ甲斐のある良い趣味を見つけたな」と思っています。

 

 そして、趣味を断捨離したことで、今まで以上に、ブログに関われる時間は増えそうです。

 

まとめ

 「趣味の断捨離」について色々と語ってきましたが、いかがでしたでしょうか。

 

 今の時代は、レジャー産業が大きくなっているので、「様々な趣味」が楽しめるようになりました。

 

 それはもちろん、良い面もあります。

 

 しかし、レジャー産業が肥大化したことによる弊害も出ています。

 

 レジャー産業に属する企業は、自分の会社にお金を使ってもらうため、メディアを使って、様々な広告をうちます。

 

 そのため、その広告に踊らされて「実はそこまで好きという訳ではない趣味」に時間やお金を費やしている人が沢山います。

 

 これは非常にもったいないことです。

 

 「時間」というのは、どんな人にとっても有限です。

 

 そのため、「まあまあ好きなこと」に多くの時間を費やすよりも「大好きなこと」に多くの時間を費やしたいものです。

 

 また、「お金」も、よほどの大金持ちでないかぎり、人生の中で使える額は限られています。

 

 その貴重なお金を「そこそこ好きなこと」ばかりに使ってしまうのはもったいないと思います。

 

 貴重なお金は、なるべく「大好きなこと」に使いたいところです。

 

 その方が、お金を使う意義を感じられるはずです。

 

 10代や20代といった若い頃は、様々な趣味を試してみてもいいでしょう。

 

 その中から、「大好きな趣味」が見つかるかもしれないからです。

 

 しかし、年齢を重ねても若い頃と同じ感じで行くと、時間やお金を無駄にしてしまう確率は高まります。

 

 そのため、40代以上の年齢になったら、なおさら、「趣味の断捨離」をした方が良いと思います。

 

 40代にもなれば、様々な経験をしているので、「自分は、これが大好き」ということは把握しているはずです。

 

 それに気づいているのなら、その「大好きなこと」だけに時間やお金を注ぎ込んだ方が有益です。

 

 もちろん、中には、10代や20代で「心から大好きだ」と思える趣味に出会えた人もいるでしょう。

 

 そういう人は、若い頃から「趣味の断捨離」をして、「大好きなこと」だけにのめり込むのもありだと思います。

 

 若い頃から趣味を掘り下げていくと、40代や50代になる頃にはものすごく深いところまで掘り下げられる可能性があるからです。

 

 そこまでいけば、その趣味の奥深さに気づけて、さらにその趣味を楽しめるようになると思います。

 

 また、「趣味の断捨離」は、一度やればそれでOKという訳ではなく、何年かごとに再度見直すことをおすすめします。

 

 人間は、変わっていく生き物です。

 

 数年前は大好きな趣味でも、今現在はそんなに好きではなくなっていることもあります。

 

 やはり、「今現在大好きなこと」に時間やお金を使うことが重要なので、定期的な見直しは必要です。

 

 こんな感じで色々と語ってきましたが、自分としては、今のところ「趣味の断捨離をして良かった」と思っています。

 

 そのため、「趣味が多すぎる」と感じている方は、趣味の断捨離を検討してみてください。

 

 趣味の断捨離をすると、すっきりしますし、「自分のやるべきこと」が明確になったりします。

 

 

 

坂本慎太郎「この世はもっと素敵なはず」を聴いて、独裁制について考えてみました

 2022年3月現在、ロシアとウクライナの間で戦争が起こっています。

 

 この戦争では、「独裁者・プーチン」が大きな問題となっています。

 

 現在のロシアは、プーチンによる独裁体制となっています。

 

 そのため、プーチンの暴走を誰も止めることができません。

 

 それにより、多くの人が戦争で亡くなっています。

 

 ロシアとウクライナのニュースを見た後、ふと、坂本慎太郎さんの「この世はもっと素敵なはず」を聴いてみました。

 

 そうすると、「歌詞が今の状況と重なるな」と思いました。

 

 この曲は、2014年にリリースされた曲で、「ナマで踊ろう」というアルバムに収録されています。

 

 

 この曲は、おそらく、独裁的な色が強くなっていった安倍政権に対する違和感から作られた曲です。

 

 ただ、プーチンの独裁が問題となっている2022年にも、しっくりはまる歌詞だと思いました。

 

 歌詞の全文は、下記のサイトで見られます。

 

坂本慎太郎 この世はもっと素敵なはず 歌詞&動画視聴 - 歌ネット

 

 そこで今回は、この曲の歌詞を詳しく見ながら、「独裁制」についてじっくりと考えてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

坂本慎太郎さんについて

 まずは、坂本慎太郎さんについて軽く説明します。

 

 坂本慎太郎さんは、1989年から2010年まで、「ゆらゆら帝国」というサイケデリック・ロックバンドで活動していました。

 

 ゆらゆら帝国は、1990年代から2000年代にかけて、コアなロックファンから大きな支持を得ていました。

 

 その後、2010年にバンドが解散し、ソロ活動を行うようになります。

 

 ゆらゆら帝国の頃は、歌詞に政治的なメッセージが込められていることはありませんでした。

 

 しかし、ソロになってからは、時々、政治的なメッセージが入った曲を発表するようになります。

 

「この世はもっと素敵なはず」のテーマ

 ここからは、「この世はもっと素敵なはず」についてです。

 

 この曲の歌詞のテーマは、ずばり、「独裁者」です。

 

 独裁者をどういう風に描写しているのか、歌詞を詳しく見てみましょう。

 

歯向かった人間は すべて消してしまう

 最初は、こんな歌詞から始まります。

見た目は赤ん坊 すぐに泣いてしまう

そいつが危険な その国の独裁者

歯向かった人間は すべて消してしまう

そいつが首を 一振りするたびに

目玉がボタンの 手縫いの人形

そいつの機嫌で 何人も死んだ

 

 この歌詞の、『見た目は赤ん坊 すぐに泣いてしまう』という部分は、プーチンには当てはまりません。

 

 プーチンは、あまり感情を表に出さずに決断を下すイメージだからです。

 

 しかし、その部分以外は、見事にプーチンに当てはまります。

 

 プーチンは、ロシアで反政府運動をしている人間を、次々と暗殺していると言われています。

 

 そして、ウクライナがロシアの要求を飲まないと、戦争を仕掛けて多くの人を殺しています。

 

 まさに『歯向かった人間は すべて消してしまう』といった感じです。

 

 

言葉が通じない

 さらに、こういう歌詞が続きます。

見た目は日本人 同じ日本語

だけどなぜか 言葉が通じない

はみだした存在は すぐに消してしまう

誰もが自分で 何か起きる前に

中身はがらんどう 木彫りの人形

そいつを拝んで ただ口をつむぐ

 

 プーチンは日本語を喋れないので、『見た目は日本人 同じ日本語』という部分は当てはまりません。

 

 しかし、それ以外の部分は、ほぼ当てはまります。

 

 プーチンは「ネオナチによる迫害から自国民を救う」と言って、ウクライナに戦争を仕掛けています。

 

 しかし、「ウクライナがネオナチ化している」と見ている人は、プーチン以外にほぼいません。

 

 そして、「それはおかしい」と言う人がいても、話を聞こうとせず、戦争を仕掛けます。

 

 それを見ると、「この人は、言葉が通じないな」と思ってしまいます。

 

 また、自分の意向に沿わない人は、すぐに消しています。

 

 プーチンは「ネオナチから救う」という大義を掲げていますが、その大義が空っぽであることは誰の目からも明らかです。

 

 しかし、「プーチンの中身は空っぽだ」と見透かされていても、ロシアがプーチンの独裁体制である以上、プーチンを拝んで、口をつむぐロシア国民が多くなっています。

 

お前正気か?

 次はこんな歌詞です

よく見なよ お前正気か?

 

 これは、おそらく、プーチンのような「独裁者」に向けた言葉でしょう。

 

 「酷いことばかりしているが、お前正気か?」「冷静になって考え直せ」というメッセージだと思います。

 

 または、「独裁者を支持している人に向けた言葉」と取ることもできます。

 

 「あんな酷い独裁者を支持するなんて正気か?」と言いたいのかもしれません。

 

ぶちこわせ

 最後は、こんな歌詞になります。

ぶちこわせ

 

 これはおそらく、「独裁体制なんていらないから、ぶちこわせ」というメッセージでしょう。

 

 この曲の中では、感情を込めずに『ぶちこわせ』と歌われています。

 

 しかし、感情を込めずに歌われるからこそ、逆に、「心の底から独裁体制をぶちこわしたいんだな」と思ってしまったりします。

 

「この世はもっと素敵なはず」というタイトルについて

 この曲をじっくり聴いた後、なぜこの曲が「この世はもっと素敵なはず」というタイトルになったのか、考えてみました。

 

 その結果、「この世はもっと素敵なはず」という言葉の前には「独裁制がなければ」という言葉が隠れているということに気づきました。

 

 自分としては、この曲の本当のタイトルは「(独裁制がなければ)この世はもっと素敵なはず」だと考えています。

 

 独裁制がなくなって、独裁者がいなくなれば、きっと「この世はもっと素敵になる」と思います。

 

 ただ、現状では独裁制を敷いている国は沢山あるので、独裁者をなくすことは、非常に難しいですが。

 

 

 

 

 

まとめ

 坂本慎太郎さんの「この世はもっと素敵なはず」の歌詞をヒントに、独裁者や独裁体制について自分なりに考えてみました。

 

 自分としては、この曲を改めて聴いて、この記事を書いたことで、「独裁制の問題点」を考え直す良い機会になりました。

 

 独裁者が出てきた時に、独裁者を非難する人は多いです。

 

 しかし、独裁者以前に、独裁者を生み出してしまう「独裁的な政治体制」に根本的な原因があったりします。

 

 その「独裁的な政治体制」も批判して、変えていかなければなりません。

 

 人間は、誰しも、「誘惑に弱い生き物」です。

 

 周囲から「人柄が素晴らしい」と言われている人でも、権力を得たとたんに人柄が変わってしまい、私利私欲に走って酷いことをしたりします。

 

 そういう意味では、「権力は、人を狂わす恐れ」があります。

 

 そして、手にする権力が強大になればなるほど、人を狂わせる確率は高くなります。

 

 「どんな人でも、強大な権力を手にすると変わってしまう可能性がある」ということを、肝に銘じておきましょう。

 

 今回のロシアとウクライナとの戦争では、「独裁者・プーチン」に対する批判の声が多く挙がっています。

 

 そして、「プーチンを大統領の座から降ろせ」と多くの人が言っています。

 

 この批判は、もっともです。

 

 自分も、プーチンの決断は、ロシアの大統領としてふさわしくないので、早くその座から降りてほしいです。

 

 ただ、プーチンを失脚させれば、それでもう安心かというと、そう簡単なものではないと思います。

 

 独裁的な政治体制を敷いている限りは、第二、第三のプーチンが出てくる可能性が高いです。

 

 そうなると、また悲劇が繰り返されます。

 

 独裁者が酷いことをした時は、その独裁者を批判するだけでは不十分です。

 

 それと同時に「独裁者を生む政治制度」も批判していかなければなりません。

 

 政治制度を、民主的な政治制度に変えていく必要があります。

 

 日本人としても、今回の件で、プーチンだけを責めるのでは不十分だと思います。

 

 「ロシアの政治体制」も批判していくべきでしょう。

 

 ただ、こういうことを言うと、「日本人がロシアの政治体制を批判したところで、変わらないから意味がない」と言う人がいます。

 

 その意見はもっともらしく聞こえますが、果たして、本当に意味のないことなのでしょうか?

 

 自分としては、そうは思いません。

 

 例えば、誰かが、SNS上でロシアの政治体制を批判して、それが拡散されたとします。

 

 ネット上で大きく拡散されると、大手メディアがそのことを記事にしたり、テレビで取り上げたりします。

 

 そうなると、より多くの人に拡散されます。

 

 その意見が多くに人に拡散されて、共感を得ると「ロシアの独裁的な政治体制は間違っている」ということが、「国際的な世論」の主流になったりします。

 

 そうなったら、各国の政府も、その意見を無視できなくなったりします。

 

 すると、各国首脳が「独裁的な政治体制を変えていかないと、ロシアとは取引しない」と言い出すかもしれません。

 

 多くの国がそういうことをしだすと、国際的に、ロシアの立場が危うくなってきます。

 

 そうなると、ロシア政府も「少し政治体制を変えていかないとまずいかも」という風に思ったりします。

 

 それにより、少しずつ政治体制が民主的になっていくこともあります。

 

 国の政治体制が変わる時は、国民による「内からの圧力」によって変わることが多いです。

 

 しかし、ここで挙げた例のように、「外からの圧力」によって、その国の政治体制が少しずつ変わっていくこともあります。

 

 そして、政治体制を変えるきっかけの元を辿ると、発端は、「誰かがSNS上で発した呟き」だったということもあります。

 

 そういうことを考えると「日本人がネットでロシアの政治体制を批判すること」も、全く無駄ではないと思います。

 

 そして、「他国の政治体制について考えること」は、ある意味で「自国の政治体制を考えること」にも繋がります。

 

 「独裁国家が抱える問題」を外側から見ることで、それを反面教師にできます。

 

 自国を独裁国家にしないためには、独裁国家のことを観察して、「独裁国家の手口」を頭に入れておくことが重要です。

 

 そうしておくと、日本の政府が、ロシアがやっていたような方法を採用しようとしたら、「ロシアみたいになったらまずい」と感じて、すぐに声を挙げることができます。

 

 そういう日本も、かつては独裁国家でした。

 

 しかし、独裁国家の下、戦争を行った結果、多くのものを失いました。

 

 その苦い経験を教訓にして、日本は民主主義国家となりました。

 

 今の日本は、民主主義国家です。

 

 しかし、自民党や政府は、自分たちの権力を強くして、「独裁的な方向」に行こうとしています。

 

 そういった素振りを見せた時に、国民は「それは違う」ときちんと批判しなければなりません。

 

 それを怠ると、「いつの間にかロシアのような独裁国家になってしまった」ということもありえます。

 

 「批判」といっても、時間のない方は、わざわざデモに出かけたりする必要はありません。

 

 「SNSで政府の独裁的な方針を批判する」といったことでも十分効果があります。

 

 そういう声がSNS上で大きく拡散されたら、政府も何らかの対応をしなければならなくなるからです。

 

 また、選挙に行って、「独裁制に反対している政党や候補者」に投票することも大事です。

 

 そういった政党や候補者が多く議席を獲得すれば、そう簡単には独裁制にはできません。

 

 自分は、この曲を聴いて「独裁制」について色々と考えた結果、「独裁制に反対ならば、心の中で思っているだけではダメだ」ということに気づきました。

 

 独裁制に反対ならば、その意見を何らかの形で表明しなければなりません。

 

 何も意見を言わないと、「何も言わないということは、独裁制に賛成なんだな」と受け取られかねません。

 

 そうなると、「独裁制にしたい」と思っている政治家は、どんどん独裁的な方向にシフトしようとしてきます。

 

 自国を独裁制にしないためには、「独裁制には反対」と言い続けなければならないと改めて思いました。

 

 この曲は、「独裁制」について考えるヒントとなる曲なので、この記事を見て気になった方は、ぜひじっくりと聴いてみてください。

 

 そして、「独裁制の問題点」についても、少し考えてみてください。