昔に比べると、最近は、「差別に対する批判」が強くなってきているように感じます。
アメリカでは、「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)」が盛り上がり、「黒人差別をなくそう」という運動も盛り上がりを見せています。
しかし、それでもなお、差別は依然として行われていて、なかなかなくなりません。
一言で「差別」と言っても、世の中には色んな種類の差別があります。
「人種差別」「男女差別」「身長による差別」「生まれた場所による差別」など、挙げていけばきりがありません。
そもそも、「差別」とは、どういうことでしょうか?
差別とは
自分としては、差別というのは、「自分ではどうしようもないことで、人から責められること」だと思っています。
差別の問題点
人間、「自分に非がある」と思うことならば、人から責められても「自分が悪いのだから仕方ない」と思うでしょう。
しかし、「差別される」場合は、自分に特に非がないのに、人から責められます。
例えば、「どのような人種に生まれるか」というのは、完全な運です。
自分で決めることはできません。
しかし、たまたま黒人として生まれると、白人として生まれる場合に比べ、人種差別を受ける機会が多くなりがちです。
差別され、「自分に非がないのに人から責められる経験」をすると、当然ですが、心は非常に傷つきます。
何度も心が傷つく経験をすると、心理面に悪影響を与えるため、日常生活に支障をきたす場合もあります。
そうなると、社会的に余計に苦しい立場に置かれたりします。
また、差別されると、「人との交流の機会が制限される」というデメリットもあります。
例えば、「黒人差別」が強い地域では、「黒人は黒人同士で付き合う」ことになります。
差別されるのが嫌で、「白人と関わらないようにしよう」となるからです。
しかし、人種が違ったとしても、「気が合う人」はいます。
白人と黒人でも、「話してみたら、凄く気が合った」というケースも沢山あります。
しかし、黒人差別が強い地域では、「気の合う白人と交流する機会」が奪われてしまいます。
「気の合う人と交流する」のは、人生の中でも非常に楽しい時間なので、そういう機会が奪われてしまうというのは、もったいないことだと思います。
そして、本人に才能があっても、それを社会的に活かせなくなるというデメリットもあります。
非常に才能のある人物でも、「黒人だから」「女性だから」「スラム街の生まれだから」といった理由で差別されて、社会的に認められなかったりします。
そうなると、差別された本人は、「自分には人より優れた才能があるのに、なんでそれを社会的に活かせないんだ」と、やるせない気分になるでしょう。
そして、それは、本人が傷つくだけでなく、「才能を社会に活かせない」という意味では、社会としても損失が大きいと思います。
日本の「差別に対する教育」の問題点
日本の学校では、道徳の時間などで、「差別をしてはいけません」と教えています。
しかし、「差別をしてはいけない」と教えていたとしても、「なぜ差別をしてはいけないのか」ということについては、あまり深く教えていないような気がします。
これはとても残念なことです。
なぜなら、ただ「差別をしてはいけません」と教えられるより、「差別をしてはならない理由」をしっかり理解した方が、差別をしなくなる確率が高くなるからです。
試しに、日本の学校を卒業した人に、「なんで差別をしてはいけないの?」と聞いてみてください。
そうすると、明確にその理由を答えられる人は非常に少ないはずです。
大半の人が、はっきりした理由を答えず、「差別はとにかくいけないことだから、してはならない」と言うと思います。
そういう人が多いのは、「日本の教育」による部分が大きいと思います。
日本の学校は、基本的に「先生が授業で言ったことを、生徒が受動的に学ぶ」という形がとられます。
授業の中で、「生徒が積極的に自分の意見を言う」ことが少なくなっています。
そして、先生も、「与えられたカリキュラムをこなす」ことに必死なので、「生徒がしっかり理解するまで説明する」ことを省きがちです。
そのため、生徒は、「とりあえず、先生の言ったことを暗記しておけばいい」となりがちです。
道徳の授業ならば、なおさらそうなるでしょう。
道徳の授業で、下手に自分の意見を言ったら、先生から「あいつは不道徳なやつだ」と思われて、成績を下げられるおそれもありますから。
日本の学校は、こういう仕組みのため、必然的に、「なぜ差別をしてはいけないのか」についてきちんと説明できる人が少なくなります。
「なぜ差別をしてはいけないのか」という理由を理解していないと、「差別がいけないことである」ということがしっかりと身に付かない可能性が高くなります。
例えば、他の学校の勉強でも、「丸暗記」と「意味を理解して覚える」のでは、身に付き方が全く違います。
「丸暗記」の場合は、「一時的に覚えているだけ」という感じなので、テストが終わったら、パッと頭から抜けてしまいます。
そして、テストの際に応用問題が出ると、丸暗記では対応できません。
それに対して、意味を理解して覚えると、しっかりと身に付くので、テストが終わったとしても忘れません。
テストで応用問題が出ても、意味を理解して覚えていると、それにも対応できます。
「差別はいけないことである」という知識を身に付けることも、これと一緒です。
「差別はいけないことである」と丸暗記しているだけだと、しっかりと身に付いていないので、頭から抜けやすくなります。
そのため、何の気なしに、差別をしてしまうことも増えます。
また、丸暗記すると、「授業で教わった場面で、差別に気をつければいいんだな」という考え方になります。
しかし、現実には、授業で教わった場面でのみ差別が行われている訳ではありません。
様々な場面で、差別が存在します。
ただ、「授業で教わった場面で、差別に気をつければいいんだな」と考えていると、それ以外の場面で無意識的に差別を行って、他者を傷つけてしまうことがあります。
そして、差別をした本人は「自分は差別をしていない」と思い込んでしまっています。
そういう人が増えると、なかなか社会から差別は減りません。
こういったことを防ぐためには、授業の中で「差別はなぜいけないのか」という理由をしっかり教えていくべきだと思います。
生徒にその理由をしっかり理解してもらうためには、「先生が一方的に喋って、生徒が黙って聴いている」という授業スタイルでは不可能です。
道徳の授業の中で、「ディスカッション」の時間を設けるべきだと思います。
「文学」「映画」「音楽」といった芸術作品には、「差別」をテーマにしたものが色々あります。
その中から、何か一つ作品を選び、その作品を鑑賞した後、ディスカッションするのも面白いと思います。
例えば、「差別をテーマにした音楽」だと、ブルーハーツの名曲「青空」があります。
「なぜ差別をしてはいけないのか」ということを理解するためには、この曲は非常に良い教材になると思います。
まず、この曲の歌詞が印刷されたプリントを生徒に配ります。
そして、この曲を聴いた後、グループごとに分かれて、「なぜ差別をしてはいけないのか」ということを生徒同士でディスカッションします。
その後、グループごとにディスカッションの内容を発表して、それに対して先生がコメントします。
こういうことをすれば、「なぜ差別をしてはいけないか」について、しっかりと理解しやすくなるのではないでしょうか。
そして、学生時代にしっかりと理解して身に付けておくと、大人になってからも、「無意識に行ってしまう差別」を減らせるはずです。
そういう人が増えれば、段々と、「差別が少ない社会」になっていくのではないでしょうか。
まとめ
ここまで、「差別」に関して、色々と語ってきました。
「日本は差別の少ない国である」と考えている日本人は多いと思います。
確かに、日本では、「誰が見てもわかるような、あからさまな差別」は少ないかもしれません。
しかし、よく見てみると、実は、様々な場面で差別が行われていたりします。
日本には、「学校でのいじめ」や「職場でのいじめ」が、沢山行われています。
いじめも、多くの場合、「差別」によるものです。
本人にはどうしようもないことで差別され、いじめられます。
「身長が非常に低い」とか「顔に大きなあざがある」とか、そういった本人にはどうしようもないことでいじめられているケースは多々あります。
これらは、れっきとした「差別」です。
差別を伴ういじめで精神疾患になる人や、自殺をしてしまう人もいます。
そして、メディアがいじめの問題を取り上げて、「いじめをやめよう」と呼びかけても、そういったいじめはなかなか減りません。
こういった日本の現状を見ると、「日本における差別の問題は、目立ちにくいけれど、実は根が深いな」と思ったりもします。
差別が日常的に行われる社会は、「差別をする一部の人間」には天国かもしれませんが、差別される側になると地獄です。
自分としては、そんな社会は嫌です。
そして、自分以外にも、多くの人が「そんな社会は嫌だ」と思っているはずです。
世の中のほとんどの人は、「差別のない世界」を望んでいるはずです。
日本社会の中で行われている差別を減らしていくためには、「教育の部分」から変えていくことが必要です。
なぜなら、学校教育というのは「これからの社会を作るための土台」だからです。
今、学校で学んでいる生徒は、学校を卒業すると、社会に出ます。
そして、社会に出た人たちが、「今後の社会」を作っていきます。
学校で、「なぜ差別をしてはいけないのか」という理由をしっかり教えないと、「差別はいけないことである」ということが、しっかりと身に付きません。
それがしっかりと身に付いていない人たちが社会作ると、「差別のない社会」を実現することは難しいです。
仮に、今の大人だけが「どうして差別をしてはいけないのか」という理由を理解していたとしても、子供が理解していなければ、その子供が大人になる頃には、また差別が生まれます。
そのため、「将来的に、差別のない社会を作りたい」と思ったら、学校教育の内容を見直す必要があると思います。
また、学校教育の中で、教師は、『「自分は決して差別はしない」と考えてはいけない』と教えるべきだと思います。
なぜなら、「自分は決して差別はしない」考えると、自分では意識しないうちに、誰かを差別してしまうことがあるからです。
差別というのは、差別している人自身が、「自分は差別をしている」と気づいている場合と、気づいていない場合があります。
しかし、差別する人自身が気づいていなかったとしても、差別された側は傷つきます。
「自分は決して差別はしない」と考えている日本人は意外と多い気がしますが、その考え方は危険です。
そういう考え方だと、「自分は、もしかしたら、知らないうちに差別をしているのではないか?」というセルフチェックが働かなくなります。
そのため、「自分は決して差別はしない」と考えている人ほど、無自覚に、様々な差別を行っていたりします。
セルフチェックをうまく働かせるためには、「自分は決して差別はしない」という考えは捨てなければなりません。
差別を減らすためには、定期的に、「自分は、知らないうちに誰かを差別していないだろうか?」と自問自答する必要があります。
そのため、学生の頃から、生徒に、「自分は、もしかしたら、自分が気づかぬうちに誰かを差別している可能性がある」という意識を持たせることは重要です。
この記事を読んで、「確かに、学校教育の中でこういうことを教えた方がいい」と考える方は、結構いると思います。
しかし、現実的には、これを実現するのは、かなり厳しい状況です。
現在は、日本の教員の負担が非常に増えています。
「とりあえず、日常業務をこなす」だけで精一杯の教員がほとんどです。
そのため、「授業にディスカッションを導入した方が良い」と言ったところで、「そんな時間はない」と一蹴されるでしょう。
本当に子どもの将来のことを考えるなら、もっと教員数を増やして、教員の負担を減らして、ディスカッションの時間を増やした方が、教育の質は上がると思います。
しかし、文部科学省や教育委員会は、そういった方針に転換する気はなさそうなので、現状を見ると、「今後も、日本社会の中で、差別やいじめは減らないだろうな」と思わされます。
ただ、そんな厳しい教育現場の中でも、『「差別はなぜいけないのか」という理由を生徒に理解してもらいたい』と考えている教員が全くいない訳ではないと思います。
そのため、こういったことを真剣に考えている教員の方がいたら、試しに、ブルーハーツの「青空」を、教材として使ってみてほしいですね。