2022年シーズンから、新庄剛志氏が日本ハムファイターズの監督に就任することが決まりました。
それにより、野球界が盛り上がってきました。
自分も、このニュースを見て「どんな采配をするのだろう?」とワクワクしました。
新庄氏というのは、現役時代から引退した後も、何をしでかすかわからない雰囲気があります。
こういう人は、見ていてとてもワクワクします。
しかし、改めて新庄氏の生き方を振り返ってみると、「この人は、いつも自分のワクワクを最優先させて生きているな」と感じます。
新庄氏を見ていると、どうしても、お金や名誉より、自分のワクワク感を最優先して生きているように思えます。
自分のワクワクを最優先にして生きているため、色々と面白いことが巻き起こっています。
そこで今回は、新庄氏の「ワクワクを最優先する生き方」を改めて振り返ってみます。
- 敬遠球をサヨナラヒット
- 12億円のオファーを蹴って、2200万円でメジャー移籍
- メジャーから日本ハムに移籍
- シーズン初めに「今シーズンで引退します」と宣言
- バリ島に10年以上住む
- 現役復帰を目指し、トライアウトに挑戦
- 日本ハムファイターズの監督に就任
- まとめ
敬遠球をサヨナラヒット
新庄氏は、高校卒業後、阪神タイガースに指名され、阪神に入団します。
彼は、阪神在籍中も様々な話題を振りまいてきましたが、その中でも特に印象深い出来事が、「敬遠球をサヨナラヒット事件」です。
2021年時点でのプロ野球では「申告敬遠」の制度が導入されています。
そのため、今では、打者を敬遠するために投手が敬遠球を投げることはありません。
しかし、90年代のプロ野球界では、まだ申告敬遠が導入されておらず、投手は、敬遠の際にもボール球を4球投げる必要がありました。
1999年6月12日、甲子園球場で、阪神・巨人の首位攻防戦がありました。
延長12回裏、一死一・三塁の場面で、新庄氏に打席が回ってきました。
ここでヒットを打てば、阪神がサヨナラ勝ちです。
巨人の投手は、槙原寛己氏でした。
しかし、巨人ベンチは「敬遠」を選択します。
槙原氏は敬遠球を投げますが、その2球目をなんと新庄氏が打って、打球は三遊間を抜けてヒットになります。
三塁ランナーが生還し、見事、阪神がサヨナラ勝ちしました。
ヒーローインタビューは、もちろん新庄氏です。
そのインタビューで「明日も勝つ!」と力強く答えたことも話題になりました。
「敬遠球を打つ」という発想は、ワクワクを優先する新庄氏らしいなと感じます。
普通のプロ野球選手は、「敬遠球を打とう」という発想はまずないと思います。
そもそも、敬遠球というのは、ほとんど打てるゾーンに来ません。
仮に打てるゾーンに球が来ても、打つのには相当勇気がいるでしょう。
プロの打者であっても「打ち損じ」はあります。
敬遠球を打ち損じてアウトになったりしたら、ファンから「何で敬遠球を打つんだ」と叩かれることが想像できます。
打てるゾーンに敬遠球が来ても、失敗した時のファンからのバッシングが頭に浮かぶと、打つ勇気のある選手はなかなかいないでしょう。
ましてや、新庄氏が所属していたのは、ファンの目が厳しい阪神です。
敬遠球を打ってアウトになったら、他球団より激しくバッシングされるでしょう。
「阪神の選手が敬遠球を打つ」というのは、とんでもなく勇気のいる行為だと思います。
しかし、新庄氏は、「ワクワクを最優先させて生きている人」です。
そのため、失敗した時のリスクより、「敬遠球を打ってヒットにしたら、ヒーローになれるぞ」というワクワク感が勝ってしまったのでしょう。
ワクワクを最優先に生きている新庄だからこそ、「敬遠球をサヨナラヒット」という名場面が生まれたのだと思います。
ちなみに、新庄氏本人は、後に「敬遠球を打つ練習をしていた」と語っています。
また、コーチにも「敬遠球を打つかもしれない」と事前に伝えていたようです。
敬遠球を打ったのは、単なる思い付きのように見えて、実は色々と準備をしていたというのはさすがですね。
「敬遠球を打つ」という行為は、ワクワクを最優先した結果だと思いますが、ワクワクだけではなかなかヒットになりません。
ヒットにするためには、事前の準備も必要です。
「敬遠球をサヨナラヒット」という名場面は、「敬遠球を打ったらどうなるんだろう」というワクワク感と「事前の準備」が合わさった結果ということですね。
12億円のオファーを蹴って、2200万円でメジャー移籍
新庄氏は、2001年に、阪神からメジャーリーグのニューヨーク・メッツに移籍します。
彼のメジャー移籍が決まった時、日本中で大きな話題となりました。
2000年のオフ、新庄氏は、FA権を取得しました。
その際、阪神は新庄氏に「5年12億」という金額を提示し、残留交渉をしたとされています。
当時の新庄氏は、阪神の主力選手でしたし、何より言動に華がありました。
阪神としても、「球団の看板選手として、なんとか残ってほしい」という思いでこの金額を提示したのでしょう。
それに対し、ニューヨークメッツは「1年2200万円」という条件を提示しました。
「メジャーリーグ移籍」というのは、選手にとっては憧れでしょうが、阪神とメッツでは、あまりに年俸が違いすぎました。
「この2つのどちらかを選べ」と言われたら、大半の人は、「阪神残留」を選ぶでしょう。
当時の新庄氏は、阪神の主力選手でしたが、日本プロ野球の中で圧倒的な成績は残せていませんでした。
そして、当時は、日本人野手でメジャー挑戦していた人はいませんでした。
確かに、メジャーリーグというのは「成功をすれば大金を掴める世界」です。
しかし、成績が上がらなければすぐ契約を切られてしまうシビアな世界でもあります。
「日本でそれほど突出した成績を残せていない選手が、メジャーリーグに挑戦する」というのは、とんでもなくリスクのある行為です。
しかし、ここでも、新庄氏はワクワクを最優先します。
新庄氏の中では、阪神が提示した金額やリスクよりも、「メジャーリーグの野球を経験してみたい」「メジャーで活躍したらヒーローになれる」というワクワク感が勝ったのでしょう。
その結果、「年俸2200万円でメジャーリーグに挑戦」という決断をします。
ちなみに、世間の大半の人は、新庄氏のメジャー移籍のニュースを見た時、否定的な見解を示していました。
みんな、「新庄がメジャー挑戦したところで通用しない」「どうせ通用せずに1年も経たずに帰ってくるだろう」と言っていました。
ただ、世間の人は新庄氏の実力を信じていなかったけれど、新庄氏本人は自分の実力を信じていたということですね。
いくらワクワクする気持ちがあっても、自分の実力を信じていなかったら、メジャー移籍の決断はできませんから。
メジャーから日本ハムに移籍
新庄氏は、メジャーリーグに3年間在籍し、まずまずの成績を残しました。
メジャーでの通算成績は3年間で打率.245、本塁打20、打点100です。
4番を打ったこともあります。
守備もメジャーの中でも上手い方でした。
3年間でこの成績で、守備も良いとなれば、「メジャーで通用した」と言っていいでしょう。
また、年俸が上がったり、CM契約が入ったりして、大金も手にしました。
しかし、メジャーでの成績にも少し陰りが見え始めてきたところで、日本プロ野球界の復帰を画策します。
ここでも、水面下で、様々な日本の球団からオファーをもらっていたと思います。
しかし、ここで、意外な球団を選びます。
新庄氏が入団を決めたのは「日本ハムファイターズ」でした。
ここであえて、「日本ハム」を選ぶところがなかなか凄いと思います。
実際、メジャーリーグから日本に復帰する場合、元の所属チームを選ぶケースが多いです。
きっと、阪神も、交渉はしていたでしょう。
また、古巣に復帰しない場合でも、ビッグネームで大金を積んでくれる球団に移籍したりします。
そこで、当時あまり人気のなかった「日本ハム」に入団するとは意外でした。
しかし、これも「ワクワクを最優先した結果」だったと思います。
その時、ちょうど、日本ハムは、本拠地を北海道に移転するタイミングでした。
新庄氏は、きっと、「チームが北海道に移転するタイミングで、自分も移籍して、一からチームを作っていったら面白そうだ」と思ったのでしょう。
また、「自分の力で、人気のなかった日本ハムを人気球団にしたい」という思いもあったでしょう。
そういった「新たなチャレンジ」として、新庄氏は、2004年から日本ハムに加入します。
シーズン初めに「今シーズンで引退します」と宣言
2004年から日本ハムに入った新庄氏は、様々な話題を提供しました。
かぶり物パフォーマンスをしたり、オールスターでホームスチールを決めたことも話題となりました。
選手としても好成績を残し、主力として活躍しました。
そして、2006年の4月18日、シーズンが始まったばかりにも関わらず、「今シーズンで現役を引退する」と宣言します。
これには、みんな驚きました。
シーズン初めに引退宣言をする選手というのは、なかなかいません。
普通は、シーズン終盤になって、今年の成績を振り返って、「自分はもう現役は厳しい」と感じて引退宣言します。
しかし、新庄氏の場合は、肉体的にはまだそこまで衰えを見せていないのに、シーズン初めにそのシーズン限りでの引退を宣言したのです。
これも、おそらく、「シーズン初めに引退を表明する選手はいないから、自分がやってやろう」というワクワク感によるものでしょう。
そして、「そうすれば、さらにチームにも注目が集まる」という狙いもあったと思います。
それが功を奏し、日本ハムへの注目度はさらに高まります。
チームの指揮も上がり、なんとその年の日本ハムはリーグ優勝して、日本一にもなりました。
新庄氏は、選手として最高の形で、ユニフォームを脱ぎました。
バリ島に10年以上住む
現役引退後は、野球から離れ、タレント活動をするようになります。
そして、2010年頃には、バリ島に移住します。
バリ島に移住してからは、メディアにもあまり出なくなりました。
はたから見ると、「何で唐突にバリ島に移住するの?」と不思議でした。
別に、バリ島で仕事をしているような様子でもなかったですし。
ただ、これも、本人なりに「ワクワクを追求した結果」なのだと思います。
誰しも、一度くらいは「南の島に移住したら楽しそうだな」と空想したことがあるでしょう。
しかし、ほとんどの人は、空想で終わって実行しません。
それに対して、「楽しそう」と思ったことをパッと実行してしまう新庄氏はさすがです。
その後は、たまに日本のテレビ番組には出たりはしていましたが、普段は何をしているのかよくわからない感じでした。
みんな、「なんか新庄らしく、自由にやってるね」という感じで見ていたと思います。
現役復帰を目指し、トライアウトに挑戦
メディア露出が極端に減っていた新庄氏ですが、2019年の11月13日、唐突に、自身のインスタグラムに「現役復帰を目指して、2020年のトライアウトに挑戦する」と宣言しました。
これにはみんな驚きました。
そして、賛否両論が巻き起こりました。
「新庄ならできる」「また現役の新庄が見たい」という声もありました。
しかし、どちらかというと否定的な意見の方が多かったです。
「その年齢で現役復帰は絶対に無理」「冷やかしでトライアウトを受けるな」という厳しい声もありました。
みんながそう言うのも無理はありません。
インスタグラムで宣言した時、新庄氏の年齢は、47歳です。トラアウトを受ける時は48歳になっています。
しかも、現役引退後は、完全に野球から離れています。
そんな人がいくら努力したとしても、「さすがに無理」と思うのが普通です。
自分もそう思いました。
しかしどこかで、「新庄なら、もしかしてやってくれるかもしれない」という気持ちもありました。
その後、インスタグラムにトレーニング動画をあげたりしていましたが、それが思った以上に良い動きだったので、「もしかしたら」という気持ちも少し高まりました。
40代後半で「またプロ野球選手になりたい」と言うのは突拍子もないことですが、これもワクワクを最優先した結果でしょう。
新庄氏の中で野球への熱が急に高まって、「この年齢で再びプロ野球選手になれたら面白い」と考えて、そういったことを言い出したのでしょう。
そして、2020年の12月7日、本当にトライアウトに参加します。
参加しただけでなく、なんとヒットも1本打ちました。
ヒットを打てると思っていた人は少なかったので、これにはみんな興奮しました。
そして、ヒットを打ったことで、再びプロ野球選手になる可能性も出てきました。
しかし結局、獲得する球団は現れず、現役復帰の夢は叶いませんでした。
日本ハムファイターズの監督に就任
2021年シーズン、ファイターズは不振にあえいでいました。
そして、その責任を取るという形で、2021年の10月16日、栗山監督の退任が決まりました。
次の監督については、「稲葉さんか?」「小笠原さんではないか?」といった予想が飛び交いました。
「新庄だ」という予想はほどんどなかったと思います。
何しろ、ずっと野球界から距離を置いてましたし、プロのコーチ経験もない訳ですから。
しかし、その後、「次期監督には新庄氏が有力」とマスコミが報道しました。
これにはとても驚きました。
そして半信半疑でした。
しかし、2021年の10月29日、「新庄剛志氏が日本ハムファイターズの監督に正式に就任した」という報道がありました。
そして、11月4日には、監督就任記者会見が開かれました。
会見の模様はこちらです。
新庄氏のところに球団から監督就任の話が来たのは、2021年の10月12日だったようです。
新庄氏は、監督就任の話が来た時のことについて、「1秒で受けると決めた」と語っています。
「監督就任を即決する」というのは、なかなか凄いことだと思います。
プロ野球の監督というのは、とても魅力的な職業ですが、その反面、大きなデメリットもあります。
チームの調子が悪いと、監督は、ファンやマスコミからバッシングされます。
プロ野球の監督になるような人というのは、メンタルが強い人ばかりです。
しかし、そんな人達でも、チームが連敗してバッシングが強くなると、なかなか眠れなくなったりするようです。
そういうリスクを考えると、監督就任の話が来ても、即決はせず「少し考えさせてください」と言うのが普通でしょう。
しかし、そんなリスクがあっても、ワクワクを優先して即決するところは、いかにも新庄氏らしいです。
まとめ
新庄氏の「ワクワクを最優先する生き方」を振り返ってみましたが、いかがだったでしょうか。
改めて見てみると、新庄氏が常に「自分がワクワクすること」を優先して生きてきたかがわかると思います。
新庄氏の歩みを振り返ってみると、彼は「非常に開拓者精神が強い」とも言えます。
きっと、「自分で道を作っていく」ことに、強いワクワクを感じるタイプなのだと思います。
逆に、「他人の決めたレールに乗る」ことについては、大金を積まれたとしても、全くワクワクしないのではないでしょうか。
日本ハムファイターズは、2023年に新球場が完成し、札幌市から北広島市に本拠地を移します。
そいういう意味では、チームとして、ちょうど変革の時が来ています。
そんなタイミングで監督に就任したのですから、新庄氏は、「自分がファイターズの新しい歴史を作ってやる!」とワクワクしながら、意気込んでいるでしょう。
プロ野球ファンとしても、ワクワクしながら、彼の今後の一挙手一投足を見守っていきたいと思います。
監督としても、また、「新庄劇場」を見せてもらいたいです。