場面緘黙症だった僕の、その後の人生

小学校時代に場面緘黙症を経験。社会に出た後も、仕事になじめずに苦しむ。社会にうまく適応できないという悩みあり。このブログが、同じような悩みを持っている方の参考になれば幸いです。

この社会で、「正常」と「障害」を決める基準について

 みなさん、人と接した時に、「この人は正常だ」、「この人は障害がある」と、すぐに判断することはできるでしょうか?

 

 確かに、「片足がない」というような身体障害を持っている人を見た場合、「この人は、障害がある」とすぐにわかります。

 

 しかし、「人格障害」のような、目に見えない障害になると、判断することは難しくなります。

 

 アメリカ精神医学会は、いくつかの判断基準を設けて、「これらの項目にあてはまったら、その人は人格障害になる」と決めています。

 

 しかし、明らかにそういった人格障害の基準にあてはまるにも関わらず、「人格障害とはみなされない人」というのも存在します。例えば、具体名は出しませんが、スポーツ選手で、どう考えても人格的におかしくて、ハチャメチャな行動ばかりとっている人がいます。でも、世間の人は、このスポーツ選手を「人格障害者」とはみなしません。それはなぜでしょうか。

 

 それはおそらく、スポーツで「大金を稼いでいる」からでしょう。世間の人は、「ちょっとあの選手の行動はおかしいけど、スポーツができて大金を稼いでるのだから、人格障害ではないよね」とみなします。この社会では、「大金を稼げていると、人格障害の基準に当てはまる人でも、社会的に許されてしまう」という事実があります。

 

 そう考えると、この社会では、「正常」なのか、「障害」の基準は、「お金を稼げているかどうか」になってしまっていると言えるのではないでしょうか。

 

 例えば、「身体障害があるけれど、大金を稼いでいる人」がいたとすると、確かにその人に身体障害はありますが、世間の人々は、その人をあまり「障害者」という目で見ないような気がします。

 

 そして、「人柄はいいけど、仕事ができなくて、無職」という人がいると、「仕事につけないなんて、あいつはおかしい」、「何か障害があるんじゃないか」という目で見るような感じがします。

 

 社会に適応できず、職が得られないと、「自分はおかしいんじゃないか」「何か障害があるのではないか」と悩む人もいるでしょう。でも、そういう人も、自分の全てを否定する必要はありません。確かに、お金を稼ぐ能力については人より劣っているかもしれませんが、よく見れば、それ以外に、自分の中に良い面もあることに気づくはずです。

 

 「正常か、障害があるかなんて、お金を稼げているかどうかだけなんだ」とわかれば、「自分は、お金は稼げないけれど、他に良いところもある」ということに気づきやすくなります。

 

 ただ、残念ながら、この資本主義社会の中では「お金を稼げない人」は、「価値がない人」とみなされがちです。しかし、それは資本主義社会の中だけです。資本主義社会を離れれば、お金を稼げなかったとしても、それ以外の価値を認めてくれる社会は沢山あります。だから、今、職につけなくて、自分自身を否定してしまっている人がいたとしたら、自分の中の、「お金にならないけれど、素晴らしい価値のある部分」を探しましょう。

 

 そして、「お金にならない自分の価値」を見つけたら、その部分にしっかりと誇りを持って生きるようにしましょう。もし、誰かがその部分を否定してきたら、「お金でしか価値が測れない、哀れな奴」とでも思っておきましょう。