場面緘黙症だった僕の、その後の人生

小学校時代に場面緘黙症を経験。社会に出た後も、仕事になじめずに苦しむ。社会にうまく適応できないという悩みあり。このブログが、同じような悩みを持っている方の参考になれば幸いです。

「自分が死んだ後も残る作品を作る」くらいの意識で、ブログ記事を書いてみよう

 自分は、「芸術家」に対して憧れがあります。芸術家というのは、自分が作りたいものを作り出して、それが多くの人に喜ばれ、評価されます。それは、とても素晴らしいことだと思うのです。

 

 ただ、芸術家の中には、「生前に、評価されなかったけれど、死後、高く評価された人」もいます。具体的には、「ゴッホ」、「中原中也」、「宮沢賢治」がそれにあたるでしょう。生きているうちに、自分の作品が評価されないのは、辛いでしょう。今の時代でいうと、「趣味で芸術作品を作っている芸術家かニート」のようなものです。きっと周囲からは、「そんなくだらないものを作ってないで、もっと働いて金を稼げ」と言われたりしたでしょう。ただ、本人は、きっと、「自分は素晴らしい作品を生み出している」と考えていたと思います。しかし、そう思っていたとしても、周囲の人は評価されないのですから、多くの葛藤はあったでしょう。ゴッホなどは、生前に売れた絵は、たった1枚しかなかったようですし。

 

 ただ、そういった辛さはあるにしても、「自分が死んだ後も、自分の作品を楽しんでくれる人がいる」というのは、すごいことだなと思うのです。だから、「ゴッホ」、「中原中也」、「宮沢賢治」の3人を、とてもうらやましく思います。

 

 芸術作品には、「その人の生き様」が込められています。ということは、芸術作品と言うのは、「その人が生きた証」でもあります。自分が死んだ後でも、「自分が生きた証」がずっと残っていくというのは、本当に素晴らしいことです。だから、できれば自分もそういったものを残したいです。

 

 そんなことを考えていると、「ブログの記事も、ある意味、芸術作品みたいなものじゃないのか?」と思いつきました。

 

 「ブログの記事が芸術作品? バカなこと言うな」と考える人もいると思います。しかし、ブログの記事の中にも、まるで芸術作品のように「心を射抜く」ような文章があるのは事実です。そういったブログの記事に出会うと、ハッとさせられますし、「この文章に出会えてよかった」と思ったりします。そう思えるのなら、ブログの記事にだって、「芸術作品」のカテゴリーに入るものはあると思うのです。ブログの記事には、その人の生き様が込められていたりしますから。

 

 そして、ブログの記事は、「自分が死んだ後も残るもの」です。確かに、有料ブログだと、サーバー代が支払われなくなれば、ネット上からそのブログは消えてしまいます。また、無料ブログでも、ブログ運営会社が倒産すれば、そのブログはネット上から消えます。しかし、そのブログがネット上から消えたとしても、そこに素晴らしい記事があったなら、それを読んだ人の心の中に「あれは素晴らしい内容の記事だった」という記憶が残ります。また、その記事をプリントアウトしている人がいれば、その記事の内容は、執筆者が亡くなった後も、ずっと残って、読むことができます。そうなれば、それはもう、「自分の死後も愛される、芸術作品」と呼んでもいいのではないでしょうか。

 

 ブログを書く目的というのは、人によって様々でしょう。「ずっと残らなくても、とりあえず人が集まる記事を書きたい」という人もいます。そういう人は、そういった記事を書いていけばいいでしょう。

 

 しかし、中には、「どうせ書くなら、時代が変わってもずっと読まれるような記事が書きたい」と思っている人もいるはずです。もしそう思ったのなら、いっそのこと、「自分が死んだ後も読まれるような作品を作ろう」というくらいの意識で、記事を書いてみたらどうでしょうか? 

 

 もちろん、全ての記事を、その勢いで書くことできないでしょう。たまには、少し力を抜いた記事を書いてもいいでしょう。でも、やる気がみなぎっている時で、「ずっと愛されるような記事を書きたい」と思った時には、そのくらいの意識で、記事を書いてみましょう。

 

 そして、そういう意識を持ちながら記事を書いていたら、本当に自分が死んだ後も愛されるような記事が書けるかもしれません。

 

 このブログも、自分が亡くなった後に、誰かが、「あ、あのブログの記事、すごく良かったな」と思ってくれたとしたら、作者としては、これほど嬉しいことはありません。

 

 ただ、その時点では、自分はこの世にいないので、確かめる術がないのが、残念ではありますが(笑)。